プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月28日付紙面を振り返ります。2000年の1面(東京版)はシドニー五輪の3位決定戦で韓国に敗れた日本代表でした。

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<シドニー五輪・野球:日本1-3韓国>◇3位決定戦◇00年9月27日

 涙が止まらなかった。勝ちたかった。西武松坂大輔投手(20)が初めて泣いた。シドニー五輪、27日の3位決定戦。銅メダルをかけプロ入り初の中3日で韓国戦に先発。7回まで3安打10奪三振で無失点。だが、打線の援護がなく、8回に3失点と力尽きた。五輪初黒星で、野球が公開競技として始まった84年のロサンゼルス五輪以来、5大会目にして初めてメダルなしとなった。松坂はロッカー室で悔し涙を見せ、4年後のアテネ大会でリベンジを誓った。

 涙が自然とあふれてきた。初のプロアマ合同チームで臨んだ五輪。メダルに届かなかった。ロッカー室でナインが体をくの字にして、うずくまっていた。淡々と取材に答えた松坂が、最後にその部屋に入ってきた。その瞬間だった。怪物の目に涙がにじんできた。「ロッカーに入って、みんなの姿を見たら、もらい泣きしました」。

 打たれても、敗れても、弱音や泣き言は口にしない。悔し涙を見せるのは、横浜高2年の夏の神奈川県大会。準決勝の横浜商戦でサヨナラ暴投を演じたのが最後だった。プロに入っても涙と無縁だった右腕がシドニーで泣いた。「チームの役に立てなかった。勝ちに結びつかず悔しい」。17日の開幕米国戦から11日目。松坂で始まった五輪は松坂で終わった。

 痛恨の122球目だった。それまで韓国打線を4安打に封じていた松坂が追い込まれる。2死二、三塁。打席には「韓国の松井(巨人)」と呼ばれる3番イ・スンヨプ。23日予選リーグで2ランを浴びた相手だった。カウント2-3。「何を投げるかちょっと迷ったんです」。この日、3打席で3奪三振と借りは返していた。選んだ速球は153キロをマークした。だが甘く入り、打球は適時二塁打となって左中間を抜けていった。

 昨秋アジア予選から背負い続けた「JAPAN 18」。「今日の一戦はベンチの選手、こっちに来られなかった選手の気持ちも、背負って投げました」。この日のヒーローイ・スンヨプには「140キロのスライダーなんて恐ろしい。韓国にはそんな投手はいないよ」と言わせたが勝負で負けた。

 8回の失点は横浜高の先輩平馬の失策が絡む。先輩のミスを取り返せなかったことも松坂を苦しめた。3試合で27回を投げ、防御率2・33。25奪三振は92年バルセロナ大会で伊藤智仁投手(現ヤクルト)がつくった大会記録27三振に迫る快投だった。それでも勝ち星を手にすることなく、松坂の五輪は終わった。

 3戦で427球を投げた。「ただのいい経験で終わるか、経験を生かして財産になるかは、自分次第。今後にかかってくると思う」。口元を引き締め、空を見上げた。「日本に帰れば公式戦があるので頑張りたい。でも4年後にまた選ばれたら、この悔しさを晴らしたいです」。シドニーの空はアテネまで続いている。

※記録や表記は当時のもの