<横浜3-3中日>◇18日◇横浜

 中日落合博満監督(57)が6度、横浜の夜空に舞った。王手をかけてから足踏みが続き、この日の横浜戦も3点先取される苦しい展開。しかし、6回に4番トニ・ブランコ内野手(30)の16号3ランで追いつき、自慢の投手陣で延長10回引き分けに持ち込んだ。シーズン中に退任が発表された監督がリーグ優勝を果たしたのは、07年の日本ハム・ヒルマン監督以来。残る仕事は、クライマックスシリーズ(CS)を勝ち抜き、07年以来の日本一に導くことだ。

 その瞬間、落合監督は静かに立ち上がった。戦いを共にしたコーチたちと握手するとベンチ裏へ消えた。青と白の戦闘服では最後のリーグ優勝。無数の思い出をかみしめ、整理するかのように1人になった。

 「オ・チ・ア・イ!

 オ・チ・ア・イ!」

 スタンドから自然に落合コールが湧き起こるなか、落合監督がベンチを出てきた。マウンドでは輪になった選手たちが待っていた。谷繁が、森野が手招きしていた。荒木が、井端が笑っていた。その顔を見ると目に熱いものがこみ上げてきた。逆転退任V。みんながくれた最高の花道。指揮官は誇るべき選手たちの手で6度も、宙に舞った。

 「最後も負けなかったというのは、本当に強くなったと思う。すばらしいのひと言。褒めてやりたい。ドラゴンズは今年で75年、4分の3世紀、開かなかった扉がやっと開いたなと」

 球団史上初の連覇という偉業を、10ゲーム差を逆転して成し遂げた。マジック2から3連敗したが、最後は落合竜らしい、負けない野球で引き分けをもぎとった。

 9月22日、電撃退任発表から24試合を、15勝6敗3分けで駆け抜けた。ヤクルトとの首位決戦3時間前という発表のタイミングに、選手、スタッフからは特別な感情が湧き出した。怒り。意地。高揚感。普通なら失速する状況でこれらの激情を野球にぶつけられたことが落合竜のすごみだ。

 快進撃の裏には指揮官が見せた「抵抗」があった。退任発表の日、球団からは記者会見を行うこと、選手に退任を説明することを要求された。だが、断固拒否した。試合前、球団首脳が説明しようとすると立ちふさがった。

 「今はまだ戦っている最中なんだ。何の区切りでもない。どうか選手にそんなことを伝えないでくれ」

 白井オーナーのいる部屋をノックした。直談判して了承を得た。そして、普段通りに指揮を執った。選手たちが人生をかける戦いの場を、体を張って守った。プロはどんな状況でも自分の仕事を全うするのみ-。指揮官が示したプロの背中は逆転Vへひた走る選手たちの道標となっていた。

 開幕前の3月11日、東日本大震災が日本を襲った。秋田出身の落合監督はある使命を感じていた。

 「東北はもちろん。日本全国が被災したんだ。みんなが傷ついたんだ。やれるやつが、やるしかない」

 東京でも断続的に続いた余震の影響で、信子夫人は揺れがなくても揺れを錯覚し、めまいを起こすようになった。ある日、激しい余震が襲った。家族は悲鳴を上げてテーブルの下に隠れた。だが、落合監督は1人立ち上がり、部屋の中央へ出ると、揺れに合わせてゆらゆらと踊ってみせた。

 「ほら、大丈夫だ」-。

 震災も、退任も、ショックや不安がなかったはずもない。だが、選手にも、家族にも、動揺する姿は見せなかった。父として、夫として、監督として、戦う背中だけを見せ続けた。

 「オレは選手に好かれようとはこれっぽっちも思わない。良けりゃ使う。悪けりゃ外す。それだけだ」

 指導者は選手と食事に行くべからず-。8年間、不変のルールだ。選手との間に「情」が生まれないように一線を引いた。だから退任Vへと突っ走る道中、指揮官のために-と戦った選手はいないはずだった。落合監督も望まなかった。

 だが、なぜだろう。情を排除したはずの指揮官も、己のために戦ったはずの選手たちも、目にはこみ上げるものがあった。男たちが長い戦いを乗り越える中でいつしか生まれていた絆。引いたはずの一線をも越えた深く、重く、強い絆。その分だけ、こみ上げるものは熱く、とめどなかった。【鈴木忠平】