<巨人9-3中日>◇30日◇郡山

 巨人山口鉄也投手(28)が金字塔を打ち立てた。中日戦の8回に登板し、1回を無失点。プロ野球史上初の5年連続60試合以上登板を達成した。「毎日毎日、僕を治療してくれるトレーナーの方々に感謝したい」と、周囲への心配りがまず口を突いた。テスト入団を経て育成選手で入団した左腕が、日本を代表するセットアッパーに上り詰めた。その過程には、温厚で静かな性格とは裏腹のたくましい思考回路があった。

 「人間に、限界ってあるんですかね」。スーツ姿で左腕を回し、山口は自分に問いかけた。球宴前最後の9連戦、広島行きを待つ羽田空港だった。「ありがたいことに、どこも痛くない。周りは『無理するな。中継ぎで5年続けた人はいない』と言ってくれる。でも5年続かない、っていう決まりもありませんよね。岩瀬さんがいます」と続けた。いつも自分で道を切り開いてきた。だから気を使われることに抵抗があった。

 「僕はあそこから始まった。行進の時だけ外野フェンスが開いた」。初夏、横浜スタジアムのバックスクリーン下を見て言った。横浜商で主戦投手だった。甲子園は届かなかった。進学の道もあったが、レールに乗らずアメリカを選んだ。

 「見聞を広めたかったんです。野球選手としてではなく」。単身でルーキーリーグに挑んだ。「シーズンは6月から9月まで。残りは日本に帰ってバイト生活でした。あとは練習…、といっても1人で壁当てとか。お金をためて、翌年挑戦、の繰り返しでした」と過去を語った。「不便とかつらいとか、同年代より遅れてるとか、思いませんでした。自分で決めたから、楽しかった」と誇らしげだった。

 「大学生と同じ、4年と決めていました」。アメリカを卒業して、横浜スタジアムに戻ってきた。横浜の入団テストに落ち、巨人で育成からスタートになった。遠回りした、とは思わなかった。「僕の原形はアメリカにある。片言の英語で投げ方を聞いて。先発も抑えも全部やれた。あの時、行って良かったと今でも言えますね」と一気に吐き出した。日本を代表する投手になっても、決断を信じて駆けたあの頃を忘れない。

 「限界なんて、誰にも分からないですよね」。自分に問いかけてみたが、答えは分かっていた。Y高のユニホームで行進してから11年。未開の地である「60登板×5年」を切り開いた。開拓者の精神があれば人生は無限に広がっていく。山口の歩みが証明している。【宮下敬至】

 ▼山口が5年連続5度目の60試合登板。60試合登板を4年続けたのは56~59年稲尾(西鉄)61~64年秋山(大洋)05~08年藤川(阪神)05~08年加藤(オリックス)といたが、5年連続はプロ野球史上初。通算5度も稲尾6度、秋山6度、岩瀬(中日)5度に次いで4人目だ。現在山口の防御率は0・58。過去に60試合以上投げて防御率0点台は11年浅尾(中日)0・41、08年藤川0・67、06年藤川0・68、07年ウィリアムス(阪神)0・96だけ。山口は0点台をキープできるか。