来春の襲名が決まった「4代目桂春団治」をめぐる遺言開きは、集まった直弟子7人が師匠の故3代目桂春団治さんの遺志を受け入れ、15分で終わっていたことが7日、分かった。

 この日、「4代目桂春団治」を襲名することが決まった桂春之輔(68)は大阪・池田市民文化会館で、毎春恒例の「第5回いけだ落語うぃーく」「第18回いけだ春団治まつり」の発表会見に出席し、後継が告げられた「遺言開き」に言及。「師匠の言葉やから、誰も何も言いようがない空気やった」と明かした。

 上方の大名跡を背負うことが決まってから初めて、一門祭の実行委員長を務める春之輔。昨年1月に3代目が亡くなってから、今年1月15日の遺言開きまで約1年、後継は伏せられたまま過ごした日々については「生殺しのようやった」とも振り返った。

 「亡くなった後も一門では僕だけ家族に呼ばれ、戒名も僕が交渉して、跡目は自分かとも思っていたけど、(死去1年後の)遺言開きまで、師匠の家族になんぼも会うてんのに、一切何もない。ほんま、生殺しのような毎日でした」

 普段通りの屈託ない笑顔だったが、その裏には大きな重圧がある。「-落語うぃーく」の制作協力を務める米朝事務所から会見に出席していた桂塩鯛(61)がその心境を代弁した。

 塩鯛は、故桂米朝さんの筆頭弟子の桂ざこばに77年に弟子入り。桂都丸を名乗っていたが、自身も10年に塩鯛を襲名した。

 襲名経験があるとはいえ、塩鯛は「僕の場合は、米朝師匠にそろそろ名前変えたらどうや、言われたもんで、3代目の名跡とはわけが違う。非常につらいなと思いますし(春之輔に)同情させてもらいますわ」ともらした。

 一方で、襲名にあたっては「お金、かかりますわ」と春之輔にアドバイス。これを受けた春之輔は「そや、そこや。うちの一門は、師匠だけ花菱(紋)で、紋付きはかま、羽織も作り直さなあきません。なんぼかかるか…」と、おどけてみせた。

 池田市での一連の興行は98年、故3代目が同市の受楽寺に「初代、2代目春団治顕彰の碑」を建立したのを機に、00年から「いけだ春団治まつり」がスタート。13年からは開催期間を延ばして「いけだ落語うぃーく」として開き、最終2日間を「春団治まつり」としている。

 今年は4月17~23日の開催で、塩鯛は初日の17日に出演。「春団治まつり」は22~23日に予定し、22日は生前の3代目の秘蔵映像と一門によるトーク、23日は一門がそろう落語会にしたいという。