萩本欽一(72)が、軽演劇の舞台を引退することが1日、分かった。デビュー50周年の来春に「THE

 LAST」と銘打って行う東京・明治座公演(3月7~30日)が最後の舞台となる。体力の衰えで、コント55号で始まった「動きの笑い」を完ぺきに見せる自信がなくなったことが理由という。1964年(昭39)にコメディアンとしてデビューし、半世紀にわたって続けてきた萩本による浅草の軽演劇も見納めとなる。

 欽ちゃんは、舞台から降りる理由を日刊スポーツに告白した。

 「気力はあるんだけど、息切れちゃってね。(明治座で)前回までものすごいうけたとこあるんですよ。見に来た仲間が『大将、あんなおかしいのに、何であそこで止めるの?』と。体がピタッと止まっちゃうの。息が切れて、セリフも言えないくらい。舞台で貧血起こって、そのくらいエネルギーいるのね。その時に、ちょっとできねえなと思って。やらないんじゃなくてやれないの」

 欽ちゃんが03年から明治座公演を始めたのは、浅草で覚えた軽演劇への強い思いがあったからだ。

 「僕が浅草で覚えた軽演劇、大事な先輩たちが残した軽演劇をやる人がいなくなったもんで、明治座始めたんですよね。渥美清さん、東八郎さんと続いたね。『大変だけど(軽演劇)覚えないか』と100人くらい(教え子を)とったんですけど。『(寅さんの)渥美清さんがいなくなって、山田洋次監督が(第2の)渥美さんを探してるぞ。早く山田監督に見つけてもらうのがいいぞ』って言ってたんですけど、誰もそこに来なかったですね。みんなコント、テレビの方へいっちゃう。時代の流れなんでしょうね」

 欽ちゃんが最も軽演劇のセンスを感じたのは、師匠東八郎さんの息子、東貴博だった。

 「一番近かったのが貴博なんだけど。ちょうど一通り覚えて、『これから軽演劇に行くか、テレビに行くか』と聞いたら、『テレビに行く』と。くそっ、いい素材なのに惜しいなと思って。最後の素材を逃したもんだから、あと誰もいないんですよね。軽演劇の笑いっていうのは、ドカンというかね。テレビは火縄銃。パン、パンっていう。笑いが全く違いますから。こんないい笑いがなくなっちゃうのも悔しいな」

 最後の舞台は欽ちゃんを慕うメンバーが殺到。「出演者札止め」状態だ。

 「動きの笑いを体力のある人が支えてくれたら、もう1回できるかなと。それが佐々木健介さん。なるべく少人数でと思ってたら、的場(浩司)君も『どうしても出たい』って。(山口)良一も『最後ですからぜひ』と。もう同じセリフで言ってきてもダメ」

 50年のコメディアン人生の集大成として臨む最後の舞台。思いがよぎる。

 「鼻血が出るほどおかしいってのができるのは最後。悔しいけど、やっとできないってことを知った。1年後でも2年後でも、間違いなくできない。コント55号から始まった動きの笑いで笑わせられないなら、お客さんに満足してもらえない。王さんの55号で始まって、王さんの記録が抜かれたのと一緒にやめられるのも何か心地いいかな。王さんが(最後のシーズンに)30本打ってもやめたのと同じで。30%の笑いならできても100%の動きの笑いというと…。自分の体は分かりますから。これが最後とはっきり言えるね。55号の動きの笑いも、潮時ってことなのね」【山田準】

 ◆軽演劇

 時事風刺などを取り入れた娯楽性の高い作品で、大衆演劇のうち喜劇を指す。誕生したのは昭和初期、1930年ごろの浅草で、後に榎本健一(エノケン)、渥美清、東八郎、萩本欽一、坂上二郎らスターが誕生。コント55号に代表される「動きの笑い」は一時代を築いた。西の吉本新喜劇も「軽演劇」と位置付けることがあり、東京でも三宅裕司らが軽演劇の一座を旗揚げした。

 ◆萩本の明治座公演

 浅草の軽演劇の継承を目的に03年2月にスタート。6回目となる来年3月のラスト公演は「THE

 LAST

 ほめんな

 ほれんな

 とめんな」と銘打ち開催。作は秋房子と君塚良一。演出は萩本で、出演は萩本に田中美佐子、的場浩司、小倉久寛、風見しんご、山口良一、松居直美、はしのえみ、佐々木健介ら。