サッカー日本代表がW杯アジア最終予選の初戦でつまずいた。98年以降、初戦に敗れてW杯に出場した国はない。この不吉なデータは、同予選で悪い流れを断ち切ることが、いかに難しいかを物語っている。同予選のホームで日本が敗れたのは、1997年9月28日の韓国戦以来、19年ぶりだった。私は当時、日本代表の担当記者だった。

 あの韓国戦も今回と同じ展開だった。1点を先制して歓喜に沸いたが、終盤に2失点して逆転負け。試合終了直後、国立競技場は失望と怒りが入り交じった重い空気に包まれた。当時は2組の各1位がW杯出場権を得て、各組2位が第3代表を争う方式。残り5戦を残していたが、最大の敵にホームで敗れたことで、「W杯出場は極めて厳しくなった」というムードが日本中に充満した。

 その空気はチームにも伝染していたように感じた。「もう失敗は許されない」という緊張感で現場はピリピリとした。試合では選手も監督もどこか臆病になって、リスクを恐れているように見えた。続くアウェーのカザフスタン戦も1-1で勝利を逃した。日本サッカー協会は急きょ加茂周監督を解任し、岡田武史コーチを監督に昇格させるショック療法に踏み切った。

 岡田武史監督は初戦となったアウェーのウズベキスタン戦で、攻撃の軸となる先発メンバーを大胆に入れ替えた。FW呂比須を城に、MF中田英を森島に。それでも結果は出なかった。試合は1点を先制され、終盤にようやく追い付いてドロー。メンバーを戻して臨んだ、続くホームのUAE戦も1-1の引き分けに終わった。4戦未勝利の泥沼。W杯出場が絶望的となり、国立競技場では観客の一部が暴徒化した。

 岡田監督はここからフレッシュなメンバーに切り替えるつもりだったという。しかし、UAE戦後の2日間のオフで熟考の末に考えを変えた。「選手にはずっと負けたわけじゃない。自信を持って戦えと言い続けてきた。ここでメンバーを替えると、自分の言葉を否定することになると思った」という。何も変える必要はない。そう思うと吹っ切れたという。

 次戦はアウェーの韓国戦だった。守備的戦術が予想された。しかし、岡田監督は非公開練習で前線から果敢にボールを奪って攻める攻撃戦術を実践した。退路を断って攻める。その監督の決意と気迫がチームを変えた。韓国戦では開始から猛スパートして、わずか1分で名波が先制点を挙げ、呂比須が続いた。2-0の完勝に、選手たちも完全に自信を取り戻した。

 1週間後のホームのカザフスタン戦を5-1で圧勝して組2位を確保。ジョホールバルでの第3代表決定戦でイランを撃破してW杯出場を決めた。体力と気力を燃やし尽くす、地をはうような長い戦いを経て、日本代表はいつしかファイター集団に仕上がっていた。W杯最終予選という長丁場を勝ち抜くには、技術や戦術よりも、メンタルがずっと重要なのだと思い知らされた。

 90年代からW杯予選はサッカー界の枠を超えた国民的行事になった。だから大衆もメディアもその結果に一喜一憂する。メンバー選考や戦術、采配にさまざまな意見が交錯する。だから、こんなに面白いのだが、すべて結果論であることも事実。来年9月まで続く長丁場は風雪もある。空気に惑わされずに、ブレない戦いを貫けば、きっと流れは変わる。19年前の記憶がそう諭してくれた。【首藤正徳】