日本代表のハビエル・アギーレ新監督(55)が来日直前の9日、日刊スポーツの単独の電話インタビューに応じた。選手として1回、コーチで1回、監督として2回、計4回のW杯を経験した中米の名将は、再建を図る日本代表に「競争力」を注入すると同時に、「勝ち方」を伝授する意向を示した。アギーレ新監督は今日11日に来日。夕方から都内のホテルで就任会見を行う。

 まさに来日直前。慌ただしい中でも、アギーレ新監督は冷静かつ紳士的だった。W杯ブラジル大会で惨敗した日本代表を、4年後のロシア大会で躍進させる責務を背負う覚悟の上で、初体験の日本という新天地での挑戦を受け入れた。その胸中を明かした。

 アギーレ新監督

 (日本代表監督就任は)個人としても大事な決断だった。多くのオファーが届いていた。スペインのクラブ、フランス、トルコ、ギリシャ代表…。その中で日本を選んだのは真剣さ、重要性があったから。これまでと全く違う文化だし、日本での挑戦は個人としても、プロとしても吸収することが多くあると考えたからだ。

 その交渉の最中、メキシコのテレビ局の解説者としてブラジルに滞在し、日本代表の惨敗を目にした。だが、それでも日本への興味を失うことはなかった。逆に、日本の長所、短所を冷静に分析していた。

 アギーレ新監督

 勤勉で組織力もある。90分間走り続けるだけの体力もある。ただ、私の分析から言うと、日本代表には試合をコントロールするための抜け目のなさ、競争力が少し足りない。外部から見た評価でしかないが、とにかく相手を抑え、得点差をキープしたり、相手に危険なプレーをさせないための連続的なプレーをする必要性を覚えないといけないだろう。

 特に、W杯ブラジル大会では試合運びのつたなさを露呈した。臨機応変に、時にずる賢く試合を進める柔軟性。歴戦の名将には、当然のように物足りなく映ったのだろう。ただ、自分の経験を伝えれば、さらに進化する手応えもある。

 アギーレ新監督

 W杯の間、日本の戦いはしっかり見ていた。W杯だけではなく多くの映像を見た。ここで名前を出すことは控えたいが、素晴らしいタレント性を持つ選手が多くいる。(自分がもたらすことができるのは)間違いなく、競争意識だ。自分のもとでは、誰ひとり気持ちを緩めることはできない。練習から定位置を争うし、どんな相手だろうと全力で戦う。自分が保証できるのはチームとして誠実にサッカーに取り組み、その中でレベルアップするため、競争、切磋琢磨(せっさたくま)していくことだ。

 ザックジャパンは基本的には主軸を固定した。W杯まで1年を切った時点で新戦力を試し、チームに加えたが、マンネリ感は拭えなかった。だが、アギーレ新監督は競争を求める。10年W杯南アフリカ大会では主軸とされたFWエルナンデス、GKオチョアらを先発から外すなど、これまでも勇気と覚悟ある決断をしてきた言葉には、説得力がある。

 アギーレ新監督

 私はしっかり責任を果たす選手、個人を大切にするのではなく、チームを大事にする選手を好む。個人の動きが組織の力になることを望んでいる。チームよりも個人を優先することは認めない。

 チームのために全力を尽くして戦うことを選手には求めていく。そして一見すると堅守速攻が持ち味と思われる自身のサッカーについても言及した。

 アギーレ新監督

 サッカーは選手によってスタイルが変わるものだ。残留が目標のチームであれば、それを目指した戦い方をする。欧州チャンピオンズリーグを狙うチームであれば、その戦いをする。目標を目指した戦いをしなければならない。日本とともにアジアを戦い、レベルを見て、どのような仕事が一番なのかを考えていく。大事なのはバランスを見つけること。攻撃的な監督、守備的な監督はないと思っている。監督は選手によってそのスタイルが変わるものだ。

 日本代表は海外組が増える一方で、ビッグクラブで出番を得られずコンディショニングに苦労する選手も増えた。

 アギーレ新監督

 その問題は私も2度、メキシコ代表監督時代に苦しんだ。だが、その条件も受け入れて仕事をしないといけない。自分は4度W杯に参加している。このテーマは熟知している。経験をもとに決断を下したい。

 1月には2連覇がかかるアジア杯オーストラリア大会が控える。そして、最終目標はW杯ロシア大会出場、その舞台での躍進だ。

 アギーレ新監督

 自分の目標、唯一の目標はW杯ロシア大会で日本を指揮すること。1年目はお互いを理解し合いたい。自分のことを選手が、選手のことを自分が。それにアジア杯で良いプレーを見せ、良い状況でW杯予選に入りたい。

 紳士的ながらも、言葉の端々に情熱を込めたアギーレ新監督は今日、ついに日本の地に降り立つ。【取材・山本孔一通信員、構成・菅家大輔】

 ◆ハビエル・アギーレ

 1958年12月1日、メキシコ市生まれ。現役時代にメキシコ代表として自国開催の86年W杯に出場してベスト8。監督としてメキシコの数クラブを指揮した後に、メキシコ代表を率いて02年W杯日韓大会で16強進出。スペインに渡り、オサスナ、Aマドリードで監督を務め、10年W杯南アフリカ大会で再びメキシコ代表を率いて16強。その後、サラゴサ、エスパニョールを指揮した。家族はシルビア夫人と3男。