箱根はスポーツを超えた「祈り」-。日本映画界を長く支えた元映画監督、篠田正浩さん(79)は箱根駅伝を「神事」と位置付ける。自らも早大1年で2区を走った経験や、駅伝が映画監督を志すきっかけになったというエピソードも交えながら、敗戦から復興を目指す日本人の支えになってきたという「箱根論」を語った。

 昭和24年に早大に入った。敗戦直後で、人生何をすべきか分からない学生時代。自分はグラウンドでひたすら走っていた。その姿を見た、競走部の中村清コーチに「その調子で5000メートルを走れば世界記録だぜ」と言われた。30円のラーメンに何とかありついて、明日は何を食おうかという時代に、急に世界記録とね。

 トラックシーズンが終わると、10月から箱根の練習に入った。自分は補欠で、事前合宿ではペースメーカー役。年が明けて試合の前日、2区に先輩の付き添いのつもりで行った。宿で「先輩マッサージします」と言ったら「お前が横になれ。明日走るのはお前」と言う。

 当日は第2集団でタスキを受けた。最初は一気に抜かれた。そうしたらサイドカーに乗った中村コーチが「篠田、練習よりペース遅い!」と怒鳴ってきた。言われる通りペースを上げて、法政と立教を抜いた。すると先の方から、応援歌が聞こえてきた。「篠田、あの応援歌はどこだ」と言われたので「陸の王者だから慶応です」と答えた。そしたら「早稲田が慶応の後ろでいいのか」と返された。漫才ですよ(笑い)。

 慶応と同着でたすきを渡した。気づくと3位になっていた。3区で2位になって、そのまま復路も2位でゴールイン。翌日の見出しは「早稲田意外な健闘。新人がよく走った」だった。中村コーチに「なんで自分が2区だったのか」と聞いたら「ベテランは走れといっても、絶対に自分のペースを守る。新人はペースが分からない分、未知の魅力がある」と説明された。確かに上級生中心なら早稲田は8、9位の予想だった。

 箱根駅伝を走って、2つ教えられた。1つは、新人には可能性があるということ。それは映画を作る時にも、自分の中に教えとして生き続けた。寺山修司(脚本家)とか武満徹(作曲家)とか、映画に初めてかかわる人とばかり、映画をつくることになった。

 もう1つは、練習中に悟ったこと。街を走っていると、すべての景色が印象的な動画になる。黒板に先生が書いた言葉などは、意識にあまり残らない。動くものは目に残る。僕が走っていて印象に残ったのは、米軍のアメ車。一瞬で通り過ぎたけど、中に女性が乗っていた。たばこを吸っている爪と、ルージュが同じ深紅だったのが分かった。

 米国文明の象徴である自動車の中に女性がいて、男と同じようにたばこを吸う。小津安二郎の映画では、原節子は絶対たばこを吸わない。見る方も怒る。そんな時代に、米国は男女平等の時代が始まっていた。走っている一瞬、何分の1秒かにそれが凝縮されていた。これは映画を勉強した方がいいかなと思った。アスリートじゃなかったら、映画監督になってなかった。

 (ファンとしての箱根の楽しみ方は)やっぱり、どんな新人が来るか。最大の興味だよね。東洋大の柏原の走りなんて、びっくりしたよね。それまでの山登りの常識的なフォームじゃない、彼は。

 それと箱根駅伝というのは、スポーツじゃない。神事。つまりお祭り。現役の時は、区間20キロをどう走るかばかり考えた。中距離からマラソンへと、距離を上げるための競技だと思っていた。でもある時から、箱根は正月じゃないとダメと思うようになった。

 正月というのは、その年の吉凶を占うというか、みんな祝福されるべき始まりを願っている。その中で、選手たちは言葉では言い尽くせない厳しい練習をして、箱根山に登る。箱根の後ろには富士山がある。神がやどっている山に、ものすごく身を清めた若者が登って、神のオーラを浴びて下界にもどってくる。そして今年の安寧祝福を祈る。

 戦争に負けた日本が復興するために、新しい「神」が、箱根駅伝によって生まれた。だから日本中が熱狂して、何十%という視聴率を記録する。スポーツ中継以上の何かがなければありえない。東京から箱根まで、選手が走っている間、排出ガスが出ないようにしているのは、道を清めていることでもある。神聖なロード。たすきがそこをつないでいく。みんなの祈りを背負っている。タスキよ、つながっていってくれよと。【取材・構成

 塩畑大輔】