12月22日、成田空港。川村昌弘(21=マクロミル)は1年間のツアー転戦を終えて、帰国した。昨年のパナソニック・オープン優勝で欧州、アジア両ツアーのメンバー資格を獲得。それをフルに生かし、今年は世界中を飛び回った。

 1月第2週の米ツアー、ソニー・オープン(米ハワイ州)に始まり、インド、ロシア、フィジー、スイスなど14カ国、38試合を回った。「誰よりも早くシーズンに入ったのに、結局誰よりも遅くまでプレーしてましたね」。最終戦のドバイ・オープンを終え、日本に戻った時には、もう2015年まであと10日になっていた。

 最後もタイからUAEと、アジア横断3週間の大遠征だったが、荷物はクラブセット1式に、さほど大きくないスーツケース1つ。「ケースもスカスカなんですよね。1週間分のウエアと、私服のTシャツ、ジーンズくらいしか入っていない」。大半の日本人選手は、同行スタッフに大きなケースを何個も運ばせて転戦する。川村の軽装は、今年1年ですっかり旅に慣れたことを物語っていた。

 都内へ移動の乗用車の助手席で、川村は「ドバイでは高さ世界一のタワー、ブルジュ・ハリファにものぼって来ましたよ」と報告した。海外に滞在しているというだけでナーバスになる選手が大半だが、川村は違う。インドのイスラム文化の代表的建築タージ・マハル。モスクワ・クレムリン宮殿前に広がる赤の広場。プレーの合間に、見聞を広めるため、積極的にコース外を歩いて回った。

 だから世界各地で、多くの人々にも出会うことができた。バンコクで知り合った日系企業の現地法人幹部と、転勤先のモスクワで再会することもあった。「これだけ試合に出て、ゴルフ的にも勉強になりましたけど、それ以上にたくさんの出会いがあったことが今年の収穫」とうなずいた。

 14歳の時に、エビアン・マスターズ(現エビアン選手権)のジュニア部門の初代覇者になった。今をときめくジョーダン・スピースが、6年後のHSBCチャンピオンズで再会した際に川村の優勝スコアを覚えていたほど、見事なプレーだった。しかし自分の結果よりも、女子とはいえ欧州のプロツアーの雰囲気に、とにかく魅了された。そして「いつか欧州でプレーしたい」と決意していた。

 9月、スイスで行われたオメガ・ヨーロピアン・マスターズに出場した。スイスとフランス、国は違うが、エビアンとは直線距離で100キロもない。風光明媚(めいび)なアルプス山麓の景色は、7年前を鮮明に思い出させた。「ついにここに来ることができた。やっぱり、思い切って世界に出てきてよかった」。目に熱いものをにじませながら、世界で戦うという決意を、あらためて固めた。

 さて、みなさんは不思議に思ってはいなかっただろうか。12年、川村はルーキーながら、いきなり賞金ランク32位に入りシード権を獲得した。13年には20歳96日で、パナソニック・オープンでツアー初優勝。石川、松山に次ぐ年少記録だった。それが今季は一転、国内ツアー17戦でトップ10なし。欧州、アジアでも精彩を欠く試合が多かった。

 実は川村の肉体は、秋口にはボロボロになっていた。胸部体部上縁の強い痛みで、アドレスすらままならない。さらには、めまいまでひどくなった。過密日程による疲労が原因であることは、誰の目にも明らかだった。

 以前から「海外を主戦場にする」と公言していた。ではなぜ、ボロボロになりながらも、国内ツアーに17試合も出たのか。欧州ツアーのメンバーになれば、今季の出場義務試合数は、松山、石川と同様に「5」になるはずなのだ。

 疑問をぶつけた。海外転戦の収穫を語る笑顔から一転、川村は口を閉ざした。しばらく、車窓をながめて考えた後「もう、終わったことですから。来年はきっと、5試合で大丈夫だと思います」とだけ話した。

 何があったのか。確認した。4月のアジア、欧州共催のメイバンク・マレーシア・オープンで、川村は確かに欧州ツアーメンバー登録を済ませている。しかし、日本ゴルフツアー機構(JGTO)を取材すると「海外を主戦場にするので国内の出場義務を5試合に減じてほしい、との申請が必要だった」とした。

--まったく申請がなかったのか

 担当者 川村選手から申請があったのが、7月になってからだった。あまりにも遅すぎた。我々としてもどうにかしてあげたかったが、それではフェアではなくなる。特例をつくるわけにはいかなかった。

--出場義務試合数の変更直後。ツアー側から説明が必要だったのでは

 担当者 とにかく各選手に、規約をしっかり読んでもらうしかないということ。本人も反省して、15年シーズンについては、すでに5試合にする申請を済ませている。

 とすれば、同様の申請をしているはずの選手が、他に2人いる。松山、石川サイドにも確認をとった。確かに申請は済ませていた。しかしツアー側から申請を求められ、申請書類一式が送られてきていたという。

 「フェア」をうたうなら、川村にも申請書類を送るべきだった。「7月に申請があった」という点についても、むしろ書類送付漏れに気づいたJGTO側から6月半ばに「申請が済んでないので、今季は他の国内ツアーメンバー同様、16試合出てもらう」と通知があったというのが、正確なところだったようだ。

 すでに欧州ツアーメンバーだった川村は、出場義務は5試合で済むものと考えていた。もちろん、恩義ある国内ツアー戦への出場を、5試合だけで済ませる気はなかった。しかし「16試合以上出ろ」とは、青天のへきれきだった。

 異議申し立てをしたが、受理されなかった。その時点で、国内ツアーの残り試合は18。ほぼ無休で出続ける必要が生じた。そのため7月下旬から、ロシア、福島、フィジー、福岡、スイス、札幌と転戦するむちゃくちゃスケジュールを組むことになった。

 大きな時差がある遠征の連続で、めまいが悪化した。胸部体部上縁の痛みも強まった。どう考えても休むべきだが、休めない。何とか第1ラウンドのスタートホールで第1打を打って、出場試合数を増やす。それだけで精いっぱいだった。

 周囲によると、川村は9月のダイヤモンド・カップの会場で、JGTOの海老沢会長から声をかけられたという。「若いんだから、もっと走り込みをしないとダメだ」。一方で出場義務試合の問題については、まったく触れられなかった。

 川村は異議申し立てが不受理になった後、会長への直訴を求めていた。体調不良を理由に拒まれていたが、これでこの件が会長の耳に入ったと考えるのが普通だ。しかしダイヤモンド・カップでのやりとりを聞く限り、川村の問題は、おそらく現場から上層部にきちんと伝わっていない。

 心も身体もボロボロになった。マカオ・オープンやパナソニック・オープン・インドなど、楽しみにしていた試合にも、国内ツアーとの日程重複で出られなくなった。それでも川村は、アジアにはせる夢を前向きに語り続ける。

 「来年はアジアと欧州の共催試合が増えます。そこで優勝すれば、シード権をもらえて、本格的に欧州でプレーできる。アジアには、先につながるチャンスがある。今から来年が楽しみで仕方がないんです」。

 このコラムで何度も書いてきたが、松山も石川も出場義務試合数の問題では、一貫性を欠くJGTOの対応に振り回され続けてきた。「フェア」とは思えない対応を受けた川村も、国内ツアーに絶望してもおかしくはなかった。それでも彼らは、国内ツアーへの恩は忘れていない。それぞれが海外で活躍した上で、国内ツアーに凱旋(がいせん)し、故郷に錦を飾ろうと考えている。

 日本のゴルフが世界に通用するようになるとか、東京五輪でメダルが取れるかどうかとか、そういう以前の問題だと思う。高い志を持って、世界にはばたく前途有望な人材を、理不尽に足止めしているとみなされれば、ゴルフ自体が国民から見放される。

 私は今月をもって、ゴルフ担当を離れる。ゴルフを取材するメディア、そしてファンのみなさんには、どうか今後もしっかりと、日本のゴルフ界を見守ってほしいと思う。【塩畑大輔】