1988年ソウル五輪、日本柔道を守ったのは、当時27歳の斉藤仁だった。異様なまでの韓国への応援と日本へのブーイング、審判の不可解な判定。逆風の中、日本は初日から負け続けた。金メダル0のピンチを最終日の95キロ超級で五輪連覇を果たした斉藤が救った。その救世主が1カ月前に「代表辞退」を直訴したことは知られていない。8月の延岡合宿、監督の上村春樹の前に悲壮な表情の斉藤がいた。

 斉藤

 もうダメだと思った。半月板と靱帯(じんたい)を痛めた右ひざは、よくならなかった。走ることはもちろん、ほとんど稽古もできない。「本当にオレでいいんですか。ほかの選手に代わった方がいいんじゃないですか?」と言った。正直、この足で五輪は難しいと思った。

 84年ロス五輪95キロ超級で金メダルを獲得。翌年4月の全日本選手権で山下が引退し、斉藤時代が来るはずだった。しかし、2冠を狙った85年ソウル世界選手権で右ひじ脱臼。その後はケガに苦しんだ。その間、正木嘉美が世界王者になり、87年には小川直也が19歳で世界の頂点に立った。選考試合では2人に辛勝したものの、世界舞台から離れている斉藤が辞退を口にするのも無理はなかった。

 上村

 あの斉藤でも弱気になったんだ。でも、オレは言ったよ。「お前しかいない。オレはお前を信じている。だから選んだ」って。立ち技はできない。打ち込みも、ひざをついた背負いばかり。安定感の正木でも、勢いの小川でも、金メダル候補だった。でも、一番大切なのは技でも力でもない。(自分の胸をたたき)ここだよ。

 代表選考会議では「全員一致だった」と上村。しかし、斉藤のケガを不安視し、小川の勢いを買う声があったのも事実だ。それでも、上村は斉藤に懸けた。柔道最終日の重圧を知っていたからだ。76年モントリオール五輪、最終日の無差別級で金メダルを獲得したのが上村だった。お家芸と言われながら、64年東京五輪以来の無差別級初優勝。13年越しの悲願を達成した重量級のエースだからこそ、斉藤の精神力に懸けた。

 上村

 日本がどんな状況にあっても、最終日は特別な重圧がかかる。まして、ソウルからは無差別級がなくなって95キロ超級だけ。その重圧は想像以上だ。斉藤はロス五輪の斉藤ではなかった。きれいな一本勝ちは望めない。それでも、前に出る気持ちはあった。最終日は、それが大切なんだ。

 ロスでは世界相手に圧倒的な強さを見せたが、ソウルでは違った。「泥臭い」と言えば聞こえはいい。例えれば「不格好」な柔道。前に出て、相手を崩して上から抑え込む「押し相撲」のような柔道。それでも斉藤は勝ち進んだ。準決勝では85年世界選手権で脱臼させられた韓国の趙容徹に雪辱。ボロボロの右ひざに自らはりを打ち、決勝ではストール(東ドイツ)に優勢勝ちした。表彰式では、涙をぬぐおうともしなかった。

 斉藤

 日本柔道のためにとかは考えていなかった。ただ、上村先生を男にしたいと。3年間を支えてくれた人たちのためにと。ロスで勝った後、おやじ(伝一郎さん)に言われた。「てんぐになるな。金メダルと言っても、お前は日本の2番なんだ」。もし85年の全日本選手権で山下先輩に勝っていたら、柔道はやめていた。負けたからこそ、大きな財産が得られた。ロスが「我」の金なら、ソウルは「感謝」の金だった。

 ロスのメダルは手元にあるが、日本スポーツ界昭和最後の五輪メダルとなったソウルの金は青森県に寄付した。「自分が持っているべきではない」と。育ててくれた故郷、支えてくれた師、先輩、仲間。辞退を思いとどまらせ、自分を信じてくれた上村に救われたからこそ、斉藤は日本柔道を救えたのだ。(敬称略)<2011年9月20日

 日刊スポーツ紙面から>