「原口文仁」が記憶に残る名前になったのは09年夏、中京大中京(愛知)の大藤敏行監督(当時、現享栄監督)に聞いた話からだった。
中京大中京は同年夏の甲子園を制し、大会後に開催された日米親善野球で大藤監督は日本代表を率いることに。大会に向けた合宿が始まった日の夜、監督の部屋をたずねてきたのが帝京(東京)の捕手、原口だった。持参したノートには、代表入りした投手陣の最高球速、変化球の持ち球、投手としての特徴などが書いてあった。原口が、各投手陣と話し、集めた情報だった。
「だれに言われたわけでもないのに、自分で考えてそういう準備をしている。帝京高校のご指導の深さ、レベルの高さを教えられました」
高校野球の名門中の名門を率いて43年ぶりの全国制覇を成し遂げた監督を、そこまで感心させた。原口と話してみて、単なる思いつきによる行動ではないと確信させるものがあったのだろう。強豪・帝京の正捕手として、日頃からチームをよりよくするために何をするべきかを考える高校生だったのだろう。原口を通し、大藤監督は帝京の指導環境のレベルを知った。1人の選手の背負うものの重さを教えられた。
プロ入り後の原口は、度重なる故障や大病と闘った。選手生命だけでなく人生の危機も乗り越え、球界でも唯一無二の存在になった。グラウンド上の行動も生き様も、16年前に胸を打たれた日本代表監督を裏切ることはなかっただろう。そんな選手が、ユニホームを脱ぐ。【堀まどか】




