いわき駅(福島県いわき市)を北口から出ると、磐城平城跡が目に入った。戊辰(ぼしん)戦争攻防の地。案内板を読み、東北に来たと実感する。


城跡を右手に進むと、延々と続く坂道に出る。磐城高校への通学路だ。「自転車だと途中で止まっちゃう人も多かったですね」と懐かしむのは、相沢健生(たける)さん(21)。同高野球部OBで、現在は順大でプレーする3年生だ。

母校はセンバツ21世紀枠に選ばれた。選出に沸くいわき市に実家はあるが、故郷は違う。「震災当初は、こんなふうになるとは全く予想してませんでした。2、3週間で富岡に帰れるかなと」。生まれも育ちも、福島県富岡町。福島第1原発事故のため、今なお帰還困難区域を抱える自治体の1つだ。

小学6年生だった。帰りの会を終え、他クラスの友達を待っていたら揺れた。高台へ逃げ、家族も無事。だが翌日、ラジオで「原発が危ない」と流れた。2人の兄が高校、高専に通っていた、いわき市へ家族で向かった。県外避難を経て、富岡に戻ることなく、同市での生活が始まった。

高校入学と同時に新居を建てた。「それからは、家族の中で『富岡に戻る、戻らない』という話は、あまりしなくなりました。次第に、やっぱり戻らない、戻れないと。今の町を見ると、ちょっと戻れない」。ぽつぽつとした口調から、現実を受け止めていることが伝わってきた。

富岡町への思いを語る相沢健生さん
富岡町への思いを語る相沢健生さん

少年野球のチームメートとは離ればなれ。不安の中、野球が支えになった。「中学の3年間が僕の原点です。野球を通して人間力を学びました」。あいさつ、言葉遣い、困難を乗り越える精神力。多くを身につけた。12年のセンバツでは、被災地代表の中学生として始球式に立った。「また甲子園の土を踏みたい」。高3春には王者・聖光学院にも勝ったが、最後の夏は準々決勝で涙をのんだ。願いはかなわずとも、故郷への思いは強まる。「福島の発展に役立つ人間になりたい」。体育教師を目指している。原点である福島の中学校で教えたい。

富岡に一時帰宅した際「時間が止まったまま」と感じた。「町がすごく小さく見えました。小学生の時は、今より30センチぐらい身長が低かったので」。避難指示が解除され、きれいにはなっても、新しいアパートを見ると寂しさに襲われる。町内に住む人は震災前の10分の1以下。家は昨秋、更地にした。それでも「いつかまた富岡に」という思いは捨てない。

「僕もそうですけど、今の生活に慣れると、戻るきっかけがない。なかなか難しいです。でも、お祭りやイベント、小さなことでも1歩1歩、また戻りたい気持ちにさせられたら。震災前より、もっとにぎやかな町になって欲しい。常磐線が、きっかけになれば」

青年の真っすぐな思いに触れ、いわき駅で鈍行に乗り換えた。約40分後「次は終点、富岡」のアナウンスが流れた。14日からは、富岡は終点ではなくなる。

北上の旅はここまで。仙台出身の記者が、常磐線を南下しようと待っている。(つづく)【古川真弥】