常磐線の北の始発駅、岩沼駅(宮城・岩沼市)から南下していこう。

仙台生まれの記者は、震災前に岩沼の球場でプレーしたことがある。岩沼海浜緑地公園野球場。仙台空港からほど近く、松林に囲まれていた。震災後は17年まで閉鎖されたため、震災前の記憶しかない。今はどうなったのだろう。原ノ町行きの電車に乗る前に向かった。


球場に命を救われた人が管理事務所で働いていた。小野寺進さん(64)は、バックネットを支えるワイヤを固定する土台に上ってしがみつき、津波から逃れた。海から数十メートルだが、地震直後は津波が来るとは思わなかった。だが、引き潮の音に青ざめた。「波が引く音が聞こえた。小豆を転がすような音。急いで公園の利用者に避難を呼びかけて、自分も逃げました」。スタンドの最上部まで浸水した。公園内で犠牲者は出なかったが、球場は壊滅状態。復旧の見通しが立たず、小野寺さんは同県利府町内の公園へ異動した。

岩沼は特別なところになった。公園管理者として最初に赴任した場所であり、命を救ってくれた場所。4年後の15年、球場やテニスコート以外の施設再開に伴い、志願して戻ってきた。「復興した公園を見たかったんです」。顔をほころばせるが、震災前とは様変わりしてしまった。

岩沼海浜緑地公園野球場のバックスタンド。小野寺進さんは震災時、スタンド最上部のワイヤを固定する土台に上がり、津波から逃れた(撮影・湯本勝大)
岩沼海浜緑地公園野球場のバックスタンド。小野寺進さんは震災時、スタンド最上部のワイヤを固定する土台に上がり、津波から逃れた(撮影・湯本勝大)

道路のかさ上げ工事の影響で、球場とテニスコートの再オープンは、さらに2年を要した。ようやく球場が再開しても、真横に駐車場ができたため、安全上の理由から硬式野球は禁止に。「以前は高校野球の応援でブラスバンドが来た。それがなくなるのは寂しい」と眉尻を下げた。津波を受けたスコアボードは塗装し直したが、配線が通らず、使用できないままだ。

それでも、学童や中学野球の大会開催で徐々に人が戻りつつある。「子どもの思い出はどこにあるか分からない。遊園地とかでなくても、何げなく野球をした場所とか覚えているものです」。巡回中は利用者へ気さくに声をかけるのが楽しみでもある。「話を聞くと、昔球場を使った人が大人になって、自分の子どもを連れてキャッチボールしてたりするんですよ」。世代を超えて親しまれているこの地を、少し誇らしげに喜んだ。

11年3月、津波の被害を受けた岩沼海浜緑地公園野球場(提供写真)
11年3月、津波の被害を受けた岩沼海浜緑地公園野球場(提供写真)

常磐線の全線開通で、他県から訪れる人が増えることも見込まれる。「景色が戻るには何十年もかかるだろうけど、人が来てにぎやかにしてもらうだけでも街の意味がある」。姿、形は変わっても、変わらず野球を楽しむ人たちがいる。活気あふれる公園になることを願いながら、常磐線へ乗り込んだ。(つづく)

【湯本勝大】