セのDH制導入は、賛否両論に分かれている。単純に分けると「投手-打者」の真剣勝負を多く楽しめるDH制と、チームを指揮する監督の「采配の妙」を楽しむ野球のどちらがいいか? という議論だろう。

一番に考えなければいけないのは、プロ野球を支えてくれているファンの声。どちらも同じくらいの数であれば、パがDHを導入しているのだからセは導入せず、どちらの楽しみも残しておいた方がいい。しかし、この議論が大きくなっているのは「どちらが楽しいか?」という比較だけでなくなっているからだ。

昨年の日本シリーズを見ても分かるように、明らかにセとパの強さに格差が開いている。もはや日本シリーズは日本プロ野球界の「最高峰の試合」ではなく「パのファイナルステージが最高峰の試合」と思っているファンもいるのではないか。「どちらの野球が楽しいか?」という単純比較に加えて「どちらの野球が強くなるか?」という論理が加わっている。「セが弱いままでは、野球が面白くない」というファンの声が生まれている。

DH制が生み出す勝負は、本当に野球のレベルを上げるのだろうか。

プロ野球前期の歩み
プロ野球前期の歩み

パがDH制を採用した1975年(昭50)以降の日本シリーズは、パが28勝でセが18勝。この勝敗だけで「DH制=チーム強化」と決め付ける前に、シリーズの勝敗の推移を振り返りながら検証してみよう。

49年にプロ野球はセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分立し、翌50年に日本シリーズ(53年まで呼称は日本ワールドシリーズ)が始まった。初代チャンピオンは、パの毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)。ただし57年まではセとパのチーム数が均等ではなく、現在の6球団ずつに分かれて戦うようになったのは58年以降。それまではセ5勝でパ3勝だった。

54年に出版された「ドジャースの戦法」を、川上監督率いる巨人が戦術として取り入れた。守備ではバントシフトやカバリング、攻撃ではヒットエンドランなど、当時の最新の戦術を駆使し、チーム力は飛躍的にアップ。さらに58年に長嶋、59年に王が入団し「ON」が全盛期を迎え、巨人は9連覇を達成した。

ほぼ互角(セ8勝、パ7勝)だったシリーズの対戦成績は、65年から73年までの9連覇でセが大きくリードした。

パの巻き返しのきっかけになったのが、65年から実施された「第1回プロ野球ドラフト会議」だった。ここまで新人選手の獲得は自由競争で、大都市に本拠地を置くセの巨人や阪神に比べて、パの苦戦が続いていた。そのためドラフトが導入される前年、パのオーナー懇談会で、西鉄ライオンズの西亦次郎(にし・またじろう)社長が抽選による新人選手の獲得を決めるドラフト制度の導入を提案、実現の運びとなった。

ドラフト制度がなかった時代、55年にテスト生で巨人に入団した森祇晶氏(日刊スポーツ評論家)に当時を振り返ってもらった。

森氏 当時はスカウトという職種がなく、高校、大学といったアマ球界との人脈でほぼ入団先が決まった。他球団に行けばすぐレギュラーになれたような素材が、たくさんジャイアンツに入団していた。ONは別格としても、いい素材に加え、常に競争を強いられる環境が強さの一因だったと思う。ドジャース戦法も1961年春のベロビーチキャンプで本を渡されて、野手のフォーメーションなどをペンで書きながら毎日、川上監督と一緒に議論しながら勉強した。V9につながったのは間違いない。

その後、74年に中日が巨人の10連覇を阻止。日本シリーズに進出するがロッテに敗退した。翌年からは阪急が3連覇。75年のMVPはドラフト1位の山口高志、76年は同7位の福本豊、77年は同1位の山田久志(日刊スポーツ評論家)が選ばれており、ドラフトの上位と下位で獲得した選手が活躍した。

77年10月、日本シリーズMVPに輝いた阪急山田
77年10月、日本シリーズMVPに輝いた阪急山田

山田氏は当時の様子を「巨人人気は絶大。自分も巨人に行きたいと思っていたけど、1位ではなく2位か3位だったと聞いた。当時の阪急はドラフトの成果が出たとも言えるけど、トレードとか、なんといっても上田監督の手腕が大きかった」と話している。

新人がプロの世界に入り、真の実力をつけるまでの期間を5年と考え、それまで自由競争で獲得してきた選手が衰えて引退するまでの期間を15年とすると、ドラフト制度が始まり、巨人の連覇が終わった74年あたりが転換期になったと推測できる。そして75年、パでDH制が導入された。(つづく)【小島信行】