春日部共栄(埼玉)の硬式野球部を開校当時から45年間率いている本多利治監督(67)が、来年3月末で勇退する。生まれは高知・四万十。令和の今では高校野球界の主流となった「選手の自主性」を早くから重視した指導者でもある。「フッハハハハハハハハハッ」の高笑いに彩られた歩みを全4回でたどる。

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9月、野球部員とのジャンケンに挑む春日部共栄・本多監督
9月、野球部員とのジャンケンに挑む春日部共栄・本多監督

いざ、勝負の時。本多監督は「よっこらしょ」と反動を付けて、イスから立ち上がった。ダッシュの本数をかけての大一番。対するは野球部員の代表だ。鬼の形相で「じゃーんけーん」と右腕を振り下ろす。

パー。負けた。息を切らせる量が少なめで済んだ17歳たちは歓喜の輪。67歳は空振り三振を喫して固まるように、パーの形のまま動かない。目尻だけは垂れに垂れた。鬼神からのえびす顔。名優だ。

敗者の弁。「あの子は本当に優しい。でもね、一番気持ちが弱くて。こういう時に俺がパーしか出さないの、子どもたちにもたぶんバレてるし」。自信をつけさせたい、みんなを喜ばせる経験をさせたい-。

練習のミスに「何やっとんじゃーい!!」と、べらんめえ節が響いた。退任を発表し、自身最後の甲子園がかかる秋季大会も近づく9月半ば。でも結局は優しい。選手たちにそっと告げた。「おまえたちの気持ちは分かってるから。言わなくても、十分に伝わってるよ」。監督のために-。

春日部共栄の監督として45年間、勤め上げた。高校生の気質は変わっても、アメとムチを巧みに使い分けた昭和、平成、令和。「選手の自主性」をいち早く導入した指導者でもある。

記者の私も神髄の一端に触れたことがある。ある記事の件で謝罪に出向いた。諸事情あって、該当の案件から数年たったころの訪問だった。わびると、本多監督は「おまえかぁぁぁ!!」と目を見開き「あの時はなぁ、ほんっっっとなぁ」と節をつけるように添えた。

鬼のような表情をしながらも、私を直接的に怒ることはしない。でも、その案件についての出来事や事実は伝える。私に考えさせる。「ほんっっっっっとに」と少し和らげながら。

シリアスな話でも最後はたいてい「フッハハハハハハハハハッ」と豪快な高笑いで締める。相手を追い詰めないからこそ、相手は真剣に考える。気付く。

慶応(神奈川)が23年夏に甲子園優勝をなしとげ、選手たちの「自主性」がクローズアップされた。一方で首都圏の高校球界で最もその概念を早く進めたのが本多監督だったという声は、少なくない。

慶応よりも30年以上前のこと。93年夏に春日部共栄の2年生エースとして甲子園準優勝にまで上り詰めた土肥義弘氏(48=現西武ファーム投手総合コーチ)が振り返る。

「本多監督が自主性を強く打ち出したのって、ちょうど私たちの代のちょっと前くらいからだと思うんです。私は昔から、プランを立ててそれを実行するのが好きなタイプでした。でも高校野球って特に当時は、そういうわけにもいかないじゃないですか。自分で考えて動くことを本多監督が容認してくれたことは、本当に大きかったです」

誰しもが「器がデカすぎる人」「ハートが半端なく強い人」と、この大ベテラン監督を表現する。原点は生まれ育った高知、四万十にある。本多少年は圧倒的な大自然を前に、足が震えていた。【金子真仁】(つづく)


◆本多利治(ほんだ・としはる)1957年(昭32)9月30日生まれ、高知県中村市(現四万十市)出身。高知高で3度甲子園に出場し、3年春に全国優勝。80年に春日部共栄監督に着任し春夏合計8度、甲子園に出場し、93年夏は準V。