昭和が終わりを告げる直前の1988年(昭63)11月1日、田中将大は兵庫・伊丹市で生まれた。駒大苫小牧高、楽天、ヤンキースと野球界のトップを走り続け、楽天時代の13年には、無傷の24連勝でイーグルスを初の日本一へ導いた。先頭を切って平成を駆け抜け、新時代へ挑む怪腕。今、何を考え、どこを目指していくのか-。

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楽天が初の日本一を遂げた13年オフ、田中はポスティングシステムを利用してメジャーに挑戦する意向を明かした。開幕からの24連勝をはじめ、数々のタイトルを独占。東日本大震災から2年の東北に歓喜をもたらした功労もあり、誰もが挑戦を支援し、快く送り出す空気が整った。

日本で頂点に立った田中がメジャーを志すのは、自然な流れだった。それは、野球人としての本能にも近い欲求だった。

「12年のオフ、メジャーに行きたいという気持ちを(契約更改で)伝えたので(意識し始めたのは)その少し前からですかね。09年のWBCの時は、まだ考えてなかったです。ただ、その後、それまで一緒に戦ってきたダルさんとかがメジャーに行って活躍している姿を見て、少しずつ身近に感じるようになりました」

より高いレベルで、自分の可能性を広げたい-。いつしかメジャーは、憧れではなく明確な目標に変わっていた。一方で、球団を選ぶうえで、胸中にこれまでに感じたことのない変化も生まれた。10球団以上の争奪戦となった中、名門ヤンキースを新たな職場として選択した。

「ヤンキースを選んだのは、これまでと違う環境に自分の身を置きたいという気持ちからでした。これまでは高校にしても甲子園に何度も出たことないチーム、楽天にしても、できたばかりで歴史のないチーム。その中で、僕も一緒に成長してきた感じでした」

親しい関係者からは「らしくない」との声も聞こえた。だが、自らハードルを上げることに迷いはなかった。厳しい環境が、必ずや血となり、肉となる。気概と覚悟があった。

「ヤンキースで伝統の重みを感じながら、どう成長していけるのか、という気持ちでした。ただ、今になって、当時イチローさんが言った言葉の意味が分かるようになりました」

ヤンキース移籍が決まった直後。当時同僚となるイチローは、意味深長なコメントを残している。盟主でプレーすることについて「志ある人間にとって最高の場所」と評する一方で、7年1億5500万ドル(161億円=当時)の超大型契約を結んだ後輩に、激励を込めて言った。

イチロー このオファーを受けたことへの覚悟と自信に、敬意が払われるべきだろう。

ピンストライプのユニホームを身にまとい、高額年俸で先発ローテの柱としてプレーする重圧…結果を出さなければ、強烈なバッシングを受けることも覚悟しなくてはいけない。

日本で数々の大記録を樹立した田中は、メジャーでまた新たな壁と向き合うことになる。(つづく)【四竈衛】