昭和が終わりを告げる直前の1988年(昭63)11月1日、田中将大は兵庫・伊丹市で生まれた。駒大苫小牧高、楽天、ヤンキースと野球界のトップを走り続け、楽天時代の13年には、無傷の24連勝でイーグルスを初の日本一へ導いた。先頭を切って平成を駆け抜け、新時代へ挑む怪腕。今、何を考え、どこを目指していくのか-。

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日本で数々のタイトルを手にした田中でも、ヤンキース移籍後は人知れず葛藤し、試行錯誤を繰り返してきた。

大型契約を結んだこともあり、米メディアから一挙手一投足が注目された。14年の開幕前から痛いほどの重圧を味わった。いつしか無我夢中で腕を振るようになっていた。

4月4日のデビュー戦で初勝利を挙げると、その後も順調に白星を重ねた。5月14日のメッツ戦では4安打で初完封。無傷の6連勝を飾っただけでなく、勝敗が付かなかった全8試合でクオリティースタート(6回以上、自責点3以内)を達成するなど、楽天時代をほうふつとさせる「負けない」状態を続けた。

体は悲鳴を上げそうになっていた。

「今思えば、1年目の前半は、いいところを見せようと必死でしたし、完全にやり過ぎでした。疲れとか(肩、肘の)張りが取れないまま、マウンドに上がったこともありました。あれはシーズンを通してできる投球じゃなかったです」

13年日本シリーズ第6戦で160球を投げ、翌日の第7戦に救援して胴上げ投手となった鉄腕が、本来の冷静さ、俯瞰(ふかん)的な視点を一瞬見失うほど、目いっぱいアクセルを踏んでいた。メジャーのレベルの高さを肌で感じ、ヤ軍の柱としての重圧を感じるからこそ「やり過ぎ」の投球を繰り返した。

前半戦で12勝4敗。オールスターに選出されたものの、7月8日のインディアンス戦で7回途中5失点で降板したのを機に、右肘痛で戦列を離脱した。「登板間のリズム、中4日もそうですし、移動も慣れなかったです。それが右肘の故障と関係するのかは分かりませんけど…」。球宴も出場を辞退。心身ともに許容量を超えかけていた。

培ってきた技術、引き出しをフルに駆使しても質の高い投球を持続するのが困難なほど、メジャーのシーズンは過酷だった。

「やっぱりメジャーで投げるのは簡単ではないと思いました。日本ではこちらのミスが単打で済みましたが、米国では本塁打になる。それこそ『困ったら外角低め』では済まない部分もある。ごまかしが利かないですから」

持ち得る「全力」で投げれば、目の前の1試合は抑えられるかもしれない。だが、わずかな疲労や違和感を抱えたまま、次の1試合を抑えられるほど甘い世界ではない。「2年目より3年目と、徐々に慣れてきた感じです。気付くまでには時間がかかるものだと思います」。

勝ち星を重ねることは、励みにはなる。ただ、チームとして頂点に立つこととは、必ずしも一致しない。メジャー5年目を終え、新たな境地に近づいていた。(つづく)【四竈衛】