オリックスのオーナー宮内義彦(83)は、財界きっての野球通として知られている。野球少年だった。終戦の玉音放送を聞いたのは、疎開先である兵庫県の南西部に位置する佐用郡佐用町の国民学校4年、9歳の夏休みだった。

宮内 それから急に野球がはやりだした。原っぱで布製グラブとボールをもってね。母親が野球好きで、全国中等野球(甲子園)で、小倉中(現小倉高)の福嶋(一雄)投手(1947、48年夏優勝)を見た。終戦直後の49年に、3Aサンフランシスコ・シールズに甲子園で1-2で負けたのも鮮明に覚えています。全日本は1度も勝てない。西宮(兵庫県)に住んでいたから、阪急ブレーブスもよく見ましたよ。7回が終わるとスタンドを無料開放するから待ってるんですが、そのうち“もぎり”のオジサンと仲良くなって「おいちゃん入れて」とね(笑い)。

その宮内少年が、後に経営者としてオーナーを務めるのだから運命としか言いようがない。球団売却の表面化は88年(昭63)10月19日。譲渡先の「オリエント・リース」は一般的に知られていなかった。

阪急身売りの一報を受けたメディアは、まったく無関係のオリエント・ファイナンス社に取材に出向いたほどだ。同じ関西の私鉄で、南海に続く球団売却は衝撃的なニュースだった。

当日は、川崎球場で奇跡の逆転優勝をかけた近鉄が、ロッテとのダブルヘッダーに臨んでいた。球史に残る「10・19」の名勝負を演じた裏で、球界はてんやわんやの状況に陥った。

大阪市北区の新阪急ホテルでの記者会見には、阪急オーナーの小林公平、球団社長の土田善久、隣にオリエント・リース社長の宮内が席に着いた。

宮内と小林の両社トップが臨んだ調印式には、メインバンクだった三和銀行(現三菱UFJ銀行)頭取の渡辺滉が立ち会った。

オリックスによる球団買収は、企業イメージを発信し、社会と共有する「CI(コーポレート・アイデンティティー)戦略」だった。

宮内 そのときは、野球でビジネスをやろうというより、球団をもつことが(CI戦略として)こんなに最適なものはないと思ったわけです。社名変更のタイミングとマッチしたのです。

新社名候補には「オリックス」と「オー・エル・シー」が残った。「オリックス」に決まったのは、最終的に一任された宮内の決断だった。

球団名は「オリックス・ブレーブス」から「ブルーウェーブ」「バファローズ」へと変わった。本拠地も、阪急側の条件だった西宮球場から、グリーンスタジアム神戸、大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)と引き継がれる。

初年度に最大の広告塔になったのは、40歳で本塁打、打点の2冠、パ・リーグMVP男の門田博光。リーグ優勝は95年、96年は日本一に上り詰めた。監督は仰木彬で、イチローが引っ張った。

リース業が祖業のオリックスだが、銀行、生命保険、不動産、環境エネルギー、事業投資など、日本有数の多角的事業会社にのし上がっていく。CI戦略の成功は球界のモデルになった。(敬称略=つづく)【寺尾博和】