さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第22弾は星野仙一氏(70)が登場します。
昭和22年、父が亡き人になった3カ月後に生まれたガキ大将は、母の大いなる愛を受け、野球に出会います。多くの縁あって岡山の決して強豪ではない倉敷商に進み、惜しくも甲子園出場はかないませんでした。
明大、プロと多くの出会いに恵まれ、中日、阪神、楽天を優勝に導いた生き様は、あまりにも有名です。球界に大きな存在感を放つ以前の、「高校生・星野仙一」を、あらためて取材し、執筆しました。
星野氏の高校時代を全11回の連載で振り返ります。
11月2日から12日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。
ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。
取材後記
星野仙一の野球人生は著書も多い。語り尽くされている感もあるが、岡山・倉敷商時代の記述は非常に少ない。
甲子園に出ていないからだろう。記憶をたどりながら振り返ってもらった。プレーよりも波瀾(はらん)万丈の日々が中心。現代なら確実にアウトの武勇伝があれこれ出てきた。「追憶」にふさわしい厳かな評伝に…という当初の思惑は崩壊。野球殿堂入りの大物に対して失礼を承知で、ほとんど書き漏らすことなくまとめさせてもらった。
武闘派のイメージがある。友人に聞いてもケンカは無類の強さを誇ったそう。でも「なぜ殴るのか」の語りには、昭和30年代後半という時代背景が色濃くにじんでいて、際立つ人間味のルーツが見えてくる。
意外だったこともある。我を通すのではなく、いつも周囲の意見に真っすぐ耳を傾けて従い、大きな節目の選択をしている。
回り道のように思えても「この人は」と信じたら身を委ねて、迷わずに進んでいく。当時から縁を大切に生きていることが分かり、今でも貫いているから人が集う。
客観視、という言葉を使った。幼いころから、星野仙一という人間を見つめる、もう1人の星野仙一がいたという。
豪快と繊細。光と影。同居する2つの像が、人間味の彫りを深くしている。
「闘将」という愛称が有名だが、担当記者の当時、1度も使わなかった。「何となく合わない」と敬遠していた理由が分かった。ある一面を表現しているにすぎないからだ。【宮下敬至】