江川の遠投の源は、天竜川の「石投げ」にあった。

 木曽、赤石両山系にはさまれ、険しい地形と流れから「暴れ天竜」の異名を取る。静岡、愛知、長野の3県境に位置する佐久間ダムを過ぎると、それまでの南北の流れが、東に方向を変える辺り、そこが、江川が小、中学時代を過ごした静岡・佐久間町だった。

 小2のころ、学校から戻った江川は「ちょっと散歩に行こう」と誘う父二美夫と、自宅からほど近い天竜川の河原に出掛けた。二美夫はおもむろに、足元の石を拾い上げ、激流に向かって投げ始めた。

 「まねして投げたら、おやじほど飛ばなかったけど、あまり差はなかった。おもしろくなって投げ続けた」と江川。対岸までは100メートルほどあり、最初は川の半分ほどの所で流れにもまれた。

 それが江川の野球との最初の出会いだった。当時、自宅の校区の山香小ではなく、同町の中心部にある佐久間小までバスで“越境”通学していた。校区には友だちがおらず、いつもバスを降りた停留所から1人で河原に下りていっては、毎日のように石投げに興じた。

 手のひらで軽く包めるくらいの大きさの、平たい石を探して日に30~40個投げ続けた。「どんどん距離が伸びた。すると、風に乗せればもっと飛ぶという感覚がわかってきた。投げる角度と、風の流れに乗せる投げ方というのかな」。

 遊びのようで、石投げは習慣、トレーニングの一環だった。

 もとより、負けん気は強い。小6時、体育の先生が生徒に縄跳びをやらせ、クラスのチャンピオンを競わせた。その時のことを、小、中学時代の捕手、関島民雄はよく覚えていた。「僕が“二重跳び”の記録を作ったら、かなわないとみて、彼は“後ろ二重跳び”で記録を作ったんですよ」。

 負けん気は、石投げの完成に資する。小5のころ。右足のかかとを伸ばして、いつものように指に石をかけ、風への乗せ方を確認しながら、投げた。

 石は、流れの上を横切り「ガッシャ~ン」と大きな音を立ててはねた。対岸の巨岩に届いたのだ!

 「うれしかった。もう1歩のところまでは何回もいくんだけど、なかなか届ききれなかったから。コツを覚えて、肩もできた」

 石投げが終われば、河原から60~70メートルは続く、急勾配の階段と坂道を駆け上がって自宅に戻る。地肩の強さと足腰のバネは、この住環境から培われた。

 石投げは、自らの直球の原型とまで、江川は言い切る。「石の風への乗せ方は、ストレートを回転させる投げ方と一緒なんだよ。解説者として言ったことなかったけど“江川卓のストレート”を投げるには、絶対石投げからやらないと無理。その極意を知らないとできない」。

 しだいに投手への関心を高める江川だが、最初の憧れはやっぱり「サード・長嶋」。母美代子にせっついて縫ってもらった「背番号3」のユニホームは宝物だった。小4の7月に連れていってもらった東京・後楽園球場。巨人-阪神戦で左翼席にホームランを打ったスーパースターにますます“ゾッコン”だった。

 ところが…。中1であてがわれたポジションは左翼だった。関島民雄は、つい思いだし笑い。「グラブさばきもうまかったし投手じゃなくても成功しただろうけど、レフトはちょっと…。(捕球体勢は)前なのに、なぜか下がっちゃう」。目測と勘が疑問視? され、地肩の強さから投手に回った。

 運動能力も“怪物級”だった。佐久間小5、6年が競う「スポーツ大会」のソフトボール投げ部門に、当時3年の江川が出場。60メートルを投げ高学年の記録を上回った。「低学年に抜かれては高学年の立場がない」という学校側の判断で、5、6年時の江川は、走り幅跳び部門での出場となる。ここでも4メートル64の大会新記録をマークした。恐るべし、「怪物」の少年時代、だ。  (敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月11日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)