1948年(昭23)、福嶋は夏2連覇を果たした。しかも、5試合連続完封での達成だった。その裏にあった話を紹介する。

 この大会で福嶋は毎晩母フサ子に手紙を書いていた。試合の感想などを書き、最後は「元気です。ご安心ください」と結んで終わらないと寝付けなかったという。福嶋が1歳のころ、父は戦死。母は女手ひとつで、姉3人と福嶋を育ててくれた。福嶋は小学生のころ、胸膜を患い1年間学校を休んだことがある。心配をさせまいと筆を握っていたのだ。

 もともと、体を強くしようと始めた野球だったが、母とのある約束があった。

 福嶋 親に約束させられたんです。勉強の成績が下がったら野球をやめろ、と。学校も厳しくて、成績が下がると親も呼び出されていた。そんなことになったら絶対に野球をやめなくちゃいけなくなる。

 その約束にいたるには、少しばかり時間を戻さなければいけない。

 終戦からちょうど1年後の46年8月15日。西宮球場で第28回大会が開催されたが、福嶋は控え選手として名を連ねることになった。だが、うれしいはずのメンバー入りで、ある問題を抱えることに。福嶋は野球を始めたことを母に黙っていたのだ。体調を心配する母に反対されることが分かっていたからだ。

 福嶋 真新しいユニホームを押し入れに隠していたら(夏の大会の前に)見つかったんです。翌日には学校に行って、退部すると告げられました。でも、学校側がもうメンバーに入っているからと頑張ってくれて…。大会後にいったん退部にはなりましたが、またやり始めて。翌年(47年)のセンバツはもうエースになってましたから、母を完全に押し切りました。でも、やめなかったことで体は強くなりました。

 福嶋の野球への思いに母が折れた。そのかわり、勉学をおろそかにしないことが条件だった。夜遅くまで練習した後、自宅で勉強する日々だった。時には深夜1時まで及ぶこともあった。

 福嶋 眠かったし、おなかがすいてきたこともあった。苦しかったのも事実です。でも、これも耐えて頑張れたのが、マウンドでの結果に表れたり、その後の人生でプラスになったのは間違いないです。

 そんな苦労をしているのは福嶋だけではない。多くのナインが「文武両道」を実践していた。

 福嶋 よくチームメートと言っていたんです。東大に受かるより、甲子園に出場する方が難しいんだってね。勉強は1人で頑張ればいいが、野球は9人、いや(チーム)全員が同じ意識で頑張らないと勝てないでしょう。

 高校時代を「みんな遊んでいたし、自分ももちろん遊びたい気持ちもあった。その方が楽だったかもしれない」とも振り返る。だが、こう続けた。

 福嶋 でも、ものは考えようで私は遊ぶ時間があれば野球の練習をしたいと思った。戦後の苦労の中、打ち込めるものがある、という幸せを感じていましたね。(敬称略=つづく)

【浦田由紀夫】

(2017年6月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)