畠山を擁した82年夏の甲子園を例にとり、池田野球部監督だった蔦文也は講演で聴衆を笑わせながら基本の大事さに触れていた。

 「優勝した年に『恐怖の9番バッター』ちゅうのがおったんですよ。1試合目の静岡のときに、その子だけヒット打たなんだ。あとはみなヒット打っとる。(2回戦の)日大二の試合前に、練習したグラウンドで、バッティングケージのところで悩んどったんか、かすんどったんか知りませんがねえ、ボールが口にぶち当たった。血だらけになったから、医者に行ってこい、寝とれ、代わりを出すわ、ということになった。その子っていうのがねえ、元は3番を打っとったんです。ところが人の言うことひとつも聞かん。その当時はやった掛布(雅之)さんのまねをしだした。高校生がこんなして(と、蔦は掛布のフォームをしてみせる)構えて速い球を打とうとしたら、アウトコースはみなファウルになってしまう。ヒットを打てんようになった。だから9番に落とした」

 ケガをした口は2針縫った。腫れも異様だった。

 「試合には出してほしいというから、ではこんな格好して打つな、じっくりと構えて打て、と言うたらその子がホームラン打って勝ったんです。やはり、自己流をやると壁に当たる。そういうときに人の意見を聞くという姿勢をつくってやることも大切なんです。ホームラン打った次の試合もホームラン。ありがとう、お前のおかげで勝った。ビールがうまい。今度もうまいビール飲ましてくれと言うたら、また打って。とうとう優勝したんですよ。そういうふうに、基本っていうのが大事なんですよ」

 蔦が言う「その子」は山口博史遊撃手。ケガを負った9番打者が2回戦の日大二(西東京)戦、3回戦の都城(宮崎)戦で2試合連続ホームランを放った。エースで4番だった畠山も山口の一撃には助けられたが、負傷には他のナインもあきれていたという。畠山が振り返る。

 「ケガをしたのは山口自身の不注意です。バッティング練習でケージの網の近くで見ていて、他のメンバーのファウルチップが当たった。ボールが来ても当たらない所にいればいいものを」

 その年8月16日付の新聞に「9番・山口が千金1発」、17日付には「山口2戦連発」「恐怖の9番えらいやっちゃ」、口のケガでお粥やうどんしか食べられず「“オカユ”パワーで4の4」と、見出しが躍った。

 山口の1本目のホームランは、畠山もさほど驚かなかったようだ。元クリーンアップが、その力を発揮した。だが、2本目に対しては少し違った感想だった。

 「さすがにびっくりしました。インサイド気味の難しい球を打ったものですから」

 池田の底知れぬ力を、甲子園の観客や全国の目が確認し始めていた。18日の準々決勝で早実(東東京)、19日は準決勝で東洋大姫路(兵庫)、20日の決勝で広島商をなぎ倒して頂点に立つ。ただ畠山自身は、いまひとつしっくり来ないまま優勝への階段を上っていた。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月9日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)