1年秋の秋季東京大会で2季連続となる春のセンバツ出場を決めた荒木は、腰痛に苦しんでいた。

 「秋の大会まではやったけど、秋の大会が終わってからは腰が痛くて。練習はあまりできなかった。疲労性だったと思う。腰は、大会が終わると重だるいみたいなのはあった。肘もそうだよね」

 思うように調整は進まない。焦りが募る荒木の事情とは関係なく、空前の「大ちゃんフィーバー」は続いていた。各スポーツ紙には荒木のための「番記者」が誕生し、アイドル雑誌や週刊誌も追っ掛けを開始する。「女の子の雑誌も全盛だった。(雑誌)セブンティーンにも担当記者と担当カメラマンがいたから」。連日グラウンドには100人を超える女子高生が集まった。当時は現在のような携帯電話やSNSのない時代。「あったら恐ろしかった」という日々が続いた。

 優勝候補に挙げられた81年春のセンバツ。初戦の東山(京都)戦は大会第1日、開会式後の第2試合だった。腰痛のため、万全の調整ができなかった荒木は、8回途中まで9安打で4四死球を出すなど6失点。2-6で初戦敗退した。

 「開会式の直後で、始まったら帰るみたいな感じだった。腰は違和感はあったかもしれないけど、できない感じじゃなかった。練習できなかった方が響いていると思う」

 1年夏の準優勝を上回る結果を期待した荒木ファンは、信じられないものを見るような思いだった。ただ荒木の感覚は違った。

 「優勝候補みたいな感じだけど、全然そういう学校じゃない。信じてもらえないんだけど、本当に強くなかった。5季連続で甲子園に出ていても、KKコンビがいた(同じ5季連続出場の)PL学園みたいな、あんなチームとは違うから」

 当時の早実の練習は、約2時間で終わっていた。ライバル校と比べると圧倒的に短い。授業とホームルームが終わるのが午後3時過ぎで、その後早稲田から、グラウンドがある武蔵関まで、高田馬場で西武新宿線に乗り換えて向かった。移動だけで約40分。練習開始は午後4時ごろだった。

 「練習は本当にしてない。ナイター照明がないから、暗くなったら終わり。普通にやっても2時間ぐらい。暗くなってから走るとかもない。それ以上練習ができないんだから」

 ブルペンの投げ込みも、球数は少なかった。投球練習はほぼ50球程度。「試合形式で、キャッチャーが球種を出して、右の何番バッターとか想定しながらブルペンで投げる。そういう練習はした。でも100球超えるとかはない。飽きちゃうもん」

 勝ちたい思いはある。ただその感情をストレートに出すチームではなかった。

 「俺らの良くなかったことなんだけど、負けて帰る時は、こんな練習しかしてないから甲子園で勝てない。そう思って帰るんだよ。これからは気持ち入れ替えて、ちゃんとやろうって、みんなで言うわけ。帰るでしょ。元に戻るの。いつも通り、やらない。だから強くならない。いつまでたっても本当の強さがない」

 荒木自身も、2年生になると投球自体に悩みを感じ始めていた。体が大きくなり、1年時より直球のスピードは上がり、140キロ近くまで出るようになった。投手として喜ぶべき成長が、荒木の投球には微妙な影響をもたらすようになっていた。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2017年7月19日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)