1979年(昭54)夏の甲子園、準決勝の池田(徳島)戦で、強打の浪商は影を潜めた。7回に1点を奪われ、9回にも加点された。8回まで池田のエース橋川正人に5安打に封じ込められたまま最終回を迎える。

 前人未到の4戦連発のかかった3番香川から快音は聞かれなかった。四球、右飛、三ゴロで、無安打のまま第4打席を迎える。現在サラリーマンとして高知市内に勤務する橋川は、ドカベン対策について「思いつきでした」という。

 橋川 あのときの浪商はバットが届くところは必ず振ってきました。1球目からです。スローボールだったら力むと思ったんです。香川は威圧感があったし、1発が怖かった。でもあの体形だから速く走れないと思いました。だから四球で塁に出したんです。

 スリークオーター気味の橋川は腕を上げ下げし、さらに山なりのスローボールでかわしながら浪商打線を幻惑する。9回裏。この回も先頭の香川は四球で歩いた。ストライクが2つあったが、手を出さなかった。結局はカウント3-2からボールを選んで出塁した。

 4番山本昭良が左前打でつないだが、続く牛島和彦が強攻も遊ゴロ併殺。2死三塁から6番川端新也が投ゴロを打たされて敗退。最終回に三塁走者となった香川は2打数無安打2四球。4戦連発は阻まれた。

 香川はベンチ裏で泣き崩れた。センバツ後は右手首痛で練習ができなかった。夏は倉敷商(岡山)戦で右手中指を突き指し、比叡山(滋賀)戦で右肩にファウルチップを受けて打撲と捻挫のアクシデントに見舞われていた。満身創痍(そうい)ながらドカベンは人なつっこい笑顔をふりまいていたのだが…。

 浪商の18年ぶり全国制覇の夢はかなわなかった。大会通算27本塁打のうち、浪商の6本(香川3、山本2、牛島1)は当時の新記録。準決勝の池田戦はミスも目立ったが打線がふるわなかった。

 試合後、香川は池田ベンチに出向いた。自身が必勝のために大切にしていた石清水八幡宮と広田神社のお守りを、橋川と4番一塁の岡本聡に渡している。それまでプレッシャーのかかった怪物が、のぞかせた素顔だった。

 甲子園から宿舎「かぎや旅館」に帰るバスの車中でのことだ。すでにナインはプレッシャーから解放されて明るさを取り戻していた。マネジャーの乙宗(おとむね)誠は、後部座席の香川に肩をたたかれた。

 乙宗 すでに試合が終わって、バスの中ではみんなはしゃいでいました。でも香川から「なぁ、オッツン(乙宗)、負けるときってこんなもんやな…」と言われた。そしたら、それまで笑ってた全員が泣きだしたんです。明るく、個性の強いチームだったのに、みんなが悔しがった。最後はみんなで号泣しました。

 強気で、ヤンチャで、暴れん坊で、涙などとは無縁だったはずの浪商。それが、怪物だったドカベン香川も、エース牛島も、全員が涙を流したのだ。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年8月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)