77年4月。東邦(愛知)の入学式が行われた。高校生になったばかりの真新しい制服に身を包んだ坂本もいた。式が終わると、職員室に向かった。グラブなど野球道具一式を持ち、野球部監督の阪口慶三(現在は大垣日大監督)のもとに歩を進めた。「野球部に入れてください」。15歳の少年は思いを込め、頭を下げた。

 坂本は一般入試での入学。東邦は言わずと知れた愛知の強豪で、多くの有力選手も推薦などで集まっていた。入学と同時に野球部として練習できる推薦組とは違い、一般入試組は入部時期が約2週間遅かったという。また、学校の校舎からグラウンドまでバスで向かうのだが、当然のように乗車できる人数の上限は決まっている。一般入試で入部する1年生はバスに乗れず、グラウンドとは離れた校舎に残り、与えられたメニューをこなすのが大半だった。

 阪口に指導してもらうためにはどうすればいいか。入学前から必死に坂本は頭を悩ませていた。

 坂本 どうしたらグラウンドに連れて行ってもらえるのか、考えました。

 思いついたのが、入学式当日に入部を直接申し出ること。熱意は伝わった。入部を許可され、グラウンドへのバスに乗せてもらうことに成功したのだ。

 坂本は高校で投手になることを決意していた。軟式野球だった明豊中時代は主に外野を守った。中学3年生のときに2試合登板したことはあるとはいえ、投手経験は皆無に近かった。朝日新聞社、日本高野連が発行する大会70年史にも「『高校では投手をやろう。そして、甲子園へ行こう』。バンビ君がそう決めたのは、名古屋市立明豊中3年生の夏休みのこと。父親の勇孝さんにねだって、硬球一つとグラブとミットを買ってもらった。そして、父子でキャッチボール」(原文まま)と掲載されている。「投手坂本」を実現するには、練習を見てもらわないことには始まらなかった。

 坂本 高校では投手をやりたいと思っていた。あの日、グラウンドでキャッチボールができた。あの1日がなければ何もかも違っていた。3年間、公式戦に出られなかったかもしれない。

 見返したい相手もいた。父の勧めで、愛知県内でも屈指の強さを誇っていた名古屋電気(現愛工大名電)のセレクションを受けた。有力選手の中でも、結果を残せたと思っていた。自信はあったのだが…。か細く、きゃしゃな体形を理由に「坂本君にはちょっと無理じゃないかな」と言われた。落選だった。

 坂本 それまで親からは「お前はできないんだから、もっと頑張れ」と言われてきた。でも、赤の他人から「あんたダメ」とレッテルを貼られたのは初めてだった。

 反骨心が生まれた。見返すために選んだ東邦で、バンビへの道を歩み始めていく。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

(2017年8月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)