08年夏の90回大会で甲子園史上初の出来事があった。広陵(広島)の1番上本崇司が横浜(神奈川)戦の1回に放った一打。大会史上13本目の先頭打者本塁打だったが、03年夏には同じ広陵の1番打者だった兄博紀も東海大甲府(山梨)戦で先頭打者アーチを放っており、史上初の「兄弟先頭打者弾」だった。

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 年は違えど、兄弟で同じユニホームに袖を通し、厳しい県大会を勝ち抜いて甲子園に出場するだけでも歴史的なことだろう。それがともに広陵の1番打者として2人で史上初の快挙を成し遂げるとは。4歳違いの兄弟物語のプロローグは、03年夏だった。

 兄博紀2年時。センバツで1学年上の西村健太朗(現巨人)白浜裕太(現広島)のバッテリーとともに全国優勝を果たしていた。2季連続出場となった同年夏の85回大会。8月9日の東海大甲府戦(1回戦)の初回、カウント1-1から甘く入った球を捉えて左翼ポール際へ突き刺した。2回戦で敗れ、春夏連覇は逃したが、史上10人目の先頭打者弾を含め快音を連発。甲子園通算打率5割、1本塁打、7打点の数字を残した。

 ときは流れ、その5年後。08年夏に弟の崇司は3年生で初めて甲子園の地を踏んだ。同じ1番打者。8月12日、横浜戦(2回戦)に臨み、プレーボール直後の2球目だった。チェンジアップに泳がされながら最後は左手1本で振り抜いた。打球は1830日前、兄が放り込んだ同じ左翼席へ吸い込まれた。史上初の兄弟での先頭打者弾。ただ、試合は4-7で敗れた。

 崇司は兄が先頭打者本塁打を記録していたことも、兄弟での先頭打者弾が史上初だったことも、知らなかった。翌日、ネット記事や周りからの祝福で知った。「僕は本塁打を狙っても打てる選手じゃないので、想像もしていなかった。本当たまたまです」。切り込み役としての役割をまっとうしていただけに、本人にとっては予期せぬ記録達成だった。

 兄も同じ思いだった。

 博紀 全然、気にしていませんでしたよ。そこまで周りからも言われませんでしたし。弟とはあまり野球の話はしませんしね。僕も弟も、まぐれが続いただけ。弟のは風もありましたから。

 4歳下の弟崇司にとって兄博紀は幼いときから優しく、頼りになる存在だった。ただユニホームを着れば、いつも比較されてきた。同じ内野手。堅守に俊足巧打も併せ持つ。「兄弟だったら、みんな似ているんじゃないですか」と博紀が言うように、打撃フォームも似ていた。常に「上本博紀の弟」という枕ことばがつきまとった。それでも崇司は兄と同じ広陵への進学を決めた。「比べられるのは嫌だった。正直、うざかったです」。強豪校でのレギュラー争いだけでなく、輝かしい戦績を残した偉大な先輩でもある兄の残像とも戦っていた。

 兄の存在を忘れられたのが、高校3年の夏だった。「あのときは調子が良すぎて、どんな球でも打てる感覚がありました。あのときはつかんでいました。何でも打てると」。みなぎる自信が兄の残像も消した。広陵を卒業後、弟崇司は兄が進んだ早大とは違う明大に進み、そして兄と同じプロ野球というステージに上がった。

 兄博紀は今、阪神で活躍する。弟崇司も広島で欠かせないプレーヤーだ。上本兄弟が野球界で紡ぐ話は、まだエピローグも迎えていない。(敬称略)【前原淳】

 ◆広島の夏甲子園 通算119勝74敗。優勝7回、凖V5回。最多出場=広陵、広島商22回。

08年8月12日、横浜戦の1回表、上本崇司は左越え先頭打者本塁打を放つ
08年8月12日、横浜戦の1回表、上本崇司は左越え先頭打者本塁打を放つ