1929年(昭4)に甲子園で初めて選手宣誓を行った慶応商工主将・黒崎数馬。75年当時の都内住所へ向かったが、家は新しく、表札も「黒崎」ではなかった。だが、痕跡が残っていた。はす向かいが酒屋。83歳のおかみさんが覚えていた。「よく配達してました。ご主人から野球のチケットをもらったこともありました」。黒崎家は20年ほど前に引っ越し、転居先は分からない。ただ、そのご主人こそ、数馬に違いない。聞き込みを続け「黒崎守雅」という名前と電話番号も手に入った。男性とつながった。「黒崎数馬は、おやじです」。見つかった。

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長男・守雅(77)は「故人にとって名誉」と主に手紙で取材に応じてくれた。

数馬は1912年(明45)7月17日、新潟県中頸城(なかくびき)郡大瀁(おおぶけ)村(現・上越市)で、父奥治、母サダの間に誕生。幼稚舎から慶応で、慶応商工卒業後は慶大経済学部進学。野球を続けた。

「大学時代は元巨人軍の監督水原さんとも一緒にプレーをしたようなことも言っていました」

水原茂は慶大の先輩。さらに、注目すべきエピソードが書かれていた。

「ベーブ・ルースやゲーリッグ等が来日した時、一緒にプレーをしたようなことを言っていました」

2人の来日は34年(昭9)の日米野球だ。静岡・草薙では、全日本軍の沢村栄治が好投。だが、数馬が全日本軍の一員だった記録はない。そもそも、野球統制令により学生がプロとプレーすることは許されなかった。守雅に再び電話して確認したが、詳細は不明だった。ただ、黒崎家にはルースのサインボールがあったという。守雅の子供たちがキャッチボールに使い、なくなってしまった。守雅は「お宝とは知らなくて」と苦笑いで懐かしんだ。

ここで「慶応義塾野球部史」(60年刊)を開く。数馬の名は31年(昭6)に載っていた。春は補欠だが、秋は捕手で、水原と同じ試合にも出場。部史には、慶大が同年11月に大リーグ選抜と戦ったことが記されていた(3戦全敗。2戦は全慶大として)。

これはルース来日の3年前、31年の日米野球のことだ。ゲーリッグや通算300勝左腕グローブが来日。東京6大学から選ばれた全日本、慶大、早大、八幡製鉄などに17戦全勝した。主催した読売新聞の当時の記事によると、10月31日には慶大グラウンドで練習。これを、慶大が手伝った。記事によれば、フリー打撃に登板したグローブの球を受けたのが他でもない、数馬だった。数馬は、大リーグ選抜との試合は出ていない。サインボールは恐らく、この練習時に誰かからもらったのだろう。ベーブ・ルースは記憶違いか。いずれにせよ、初めて選手宣誓を行った球児と、偉大な300勝投手の縁が判明した。

守雅の手紙に戻ろう。

「大学卒業時、阪急球団からオファーがあったが肩を痛めていたので辞退したと言っていました。そのため、ノンプロのコロムビアレコードに就職し、宣伝部に属しながら都市対抗野球等に出ていたと言っていました。コロムビアでは歌手の二葉あき子さんらにかわいがられたようなことも言っていました」

二葉あき子は第1回紅白歌合戦に出場した歌手だ。また、都市対抗の記録によると、数馬は確かに36~39年、川崎コロムビアから出場していた。39年頃に退職し、家業の鋸(のこぎり)商を継いだ。41年、満州出征。45年に帰還。家業を続けるも、林業衰退の影響で75年頃に廃業した。83年5月、肺がんで死去。70歳だった。晩年は、孫がぐずるとドライブに連れて行く優しいおじいちゃんだった。

守雅は父親が甲子園に出たことは知っていたが、主将だったことや、まして選手宣誓したことは知らなかった。数馬にとり、あえて伝えるほどの思い出ではなかったのだろうか。それでも、初めて選手宣誓を行った人物として「黒崎数馬」は甲子園史に刻まれている。以来、甲子園の選手宣誓は続いているが、数馬の宣誓から55年後の84年、大きな転換点が訪れる。(敬称略=つづく)

【古川真弥】

(2018年4月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)