全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第17弾は、日本ハム斎藤佑樹投手(29)です。2006年(平18)、早実(東京)のエースとして甲子園に出場し、「ハンカチ王子」の愛称で大人気を博しました。文武両道を目指して入学した早実で、斎藤はどのような高校生活を送ったのでしょうか。全8回でお送りします。

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地面に陽炎(かげろう)が揺れる、暑い夏の日だった。06年8月12日。2回戦の大阪桐蔭戦。温度計は36・5度をさしていた。甲子園のグラウンド上は40度を超えていただろう。日が陰り始める第4試合とはいえ、熱気が冷める気配は、まるでなかった。

マウンド上の斎藤は、体にまとわりつくような暑さに、苦しんでいた。額から流れ落ちる汗を何度も腕でぬぐった。発汗は止まらなかった。

斎藤 アンダーシャツがビショビショにぬれてしまって、腕を振るのに袖がぬれるのは困ると思ったんです。

ベンチで斎藤は、かばんから青いハンドタオル…タオル地のハンカチを取り出した。お尻のポケットに忍ばせ、そのままマウンドに戻ることにした。

5点リードの3回、大阪桐蔭の2番打者、小杉太郎に2ランを浴びて3点差に迫られた。この直後、尻ポケットのハンカチを取り出し、右頬、口元、おでこを丹念にぬぐった。ハンカチは真四角にたたんだままだった。このシーンが世間から注目を浴びた。「ハンカチ王子」の愛称がつくきっかけになった。

斎藤 練習の時から、タオルをポケットに入れて拭いていたんですよ。いつものこと。だから周りから何か言われたこともなかったし、言われるなんて考えもしなかった。マウンドで使ったのは初めてだったけど、すごく汗を吸ってくれた。でも、そこがフォーカスされましたよね。あんなことになるとは思いませんでした。

当時の野球部長、佐々木慎一は「お母さんからもらったから、お守り代わりに持ったんじゃなかったかな」と当時を振り返る。だが、斎藤は「そうだったかな? 違ったと思いますよ」と笑った。

同年8月23日の日刊スポーツには、このタオル地のハンカチについてこう書かれている。

「母親のしづ子さん(46)は『群馬から上京したとき持たせた、普通のハンカチなんですけどね』と話した。しづ子さんが群馬県太田市の自宅近くの店で買ったものだという」

きっかけがお守りだったか、単なる汗拭き用か、今となっては分からない。ただ、勝ち進むにつれて斎藤の験担ぎになっていったことは事実だった。

大阪桐蔭戦は6安打2失点の完投勝利。12奪三振のうち3個は、のちに日本ハムでチームメートとなる1学年下の怪物・中田翔から奪った。続く福井商との3回戦でも、斎藤はポケットにハンカチを忍ばせた。汗を拭くという理由とともに、優勝候補に勝ったラッキーアイテムという意味合いも強かった。

だが、周囲の反応は変わった。マウンドでハンカチを出すと、スタンドから「おおぉ」という歓声と拍手がわき起こった。ハンカチを使うシーンが新聞やテレビで取り上げられた。注目度の高まりに斎藤は戸惑った。

斎藤 そりゃあ、やりづらくなりましたよ。たぶん決勝戦では1回も使っていないんじゃないですか?

実際には再試合も含めて決勝でも拭いているのだが、クルリとバックスクリーン方面を向いて取り出すようになっていた。騒がれることに対する複雑な心境を表していた。

まさに社会現象。全国の百貨店にハンカチのブランド名の問い合わせが相次ぎ、同年の新語・流行語大賞では「ハンカチ王子」がトップ10入りした。

ただ、ハンカチだけでなく投球そのものも強烈な印象を残した。高校最後の夏で、斎藤佑樹の人生は大きく変わった。

15歳だった中学“最後の夏”も、そうだった。快投で自分の道を…早実入学への道を切り開いた。(敬称略=つづく)【本間翼】

◆斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)1988年(昭63)6月6日、群馬・太田市生まれ。生品小1年で野球を始めて以来、投手一筋。早実では1年夏からベンチ入り。甲子園は06年春8強、同年夏は大会史上最多の7試合69イニングを投げ、決勝引き分け再試合の末に駒大苫小牧を4-3で破り優勝。春夏通算奪三振は歴代2位の104個。青いハンカチで汗を拭いていたため「ハンカチ王子」と呼ばれた。早大では4年時に主将を務め、東京6大学リーグ通算31勝15敗、323奪三振で史上6人目の30勝&300奪三振を達成。07年全日本大学選手権、10年明治神宮大会を制し、高校と大学で日本一になった。10年ドラフト1位で日本ハム入団。プロ通算7年で15勝23敗。176センチ、76キロ。右投げ右打ち。

(2017年9月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)