斎藤にとって初めての全国大会だった。2年秋の明治神宮大会。岐阜城北に勝ち、準決勝で駒大苫小牧(北海道)と対戦した。夏の甲子園を連覇していた相手のエースは、田中将大(現ヤンキース)だった。

斎藤は5回まで無失点に抑え、3-0とリードしていた。だが、相手は4回1死からリリーフに田中を投入して流れを変えた。斎藤は6回に2点、7回には4連打などで3点を失った。打線も田中に封じられ、打者19人で13個の三振を喫した。

続く3年春のセンバツでも苦い経験をした。2回戦で延長15回引き分け再試合の末、関西を下したが、続く準々決勝で横浜に3-13で大敗した。

斎藤 甲子園まではたどり着いたけど、このままでは勝ち上がることができないと思いました。

斎藤は敗戦を糧にできる。2年夏に日大三に敗れた時は、内角攻めを徹底的に練習した。この時は仲間が死球もいとわず打者役を買って出てくれた。今度はOBに助けられた。

当時早大4年だった沢本啓太(現ミズノ勤務)は、ときに早実の練習にも顔を出していた。沢本は、斎藤が成長するために何が必要か考え、ある投手の映像集を作った。早大OBで社会人トヨタ自動車でも活躍する佐竹功年。身長169センチと小柄ながら、150キロを超える球速を誇る投手だった。

沢本らは早大で研究班をつくり、投球フォームの分析を行っていた。右膝をグッと曲げ、重心をため込んだ後に体重移動とともに一気に爆発させる。そんな佐竹のフォームが、斎藤にも合っていると考えた。

沢本 おせっかいかもしれないけど、監督(和泉実)に何とか夏に勝ってもらいたかったんです。あの代は可能性があると思っていましたから。

だがいよいよCD-ROMを渡すという段階になって、沢本は考えた。「自分が言っても果たして聞いてくれるだろうか。もっと説得力を持たせたほうがいいのではないか」。斎藤が本気で取り組んでくれなければ効果は出ない。そこで、当時早大のエースだった宮本賢(元日本ハム)、大谷智久(現ロッテ)に同行を依頼した。東京6大学野球のスターがそろっていれば、斎藤も真剣に聞いてくれると考えた。

当日、都内のファミリーレストランで斎藤は固まっていた。

斎藤 そりゃあ緊張しますよ。僕にとってはプロ野球選手に会っているようなものです。何を話したか、あんまり覚えていないんです。

沢本 しばらくしたらうち解けて、変化球の握りなんかも聞いていましたよ。狙い通りでした。

すぐに斎藤は、佐竹のフォームを練習に取り入れた。右膝を曲げて重心をためる…斎藤の特徴的なフォームの始まりだった。

斎藤 僕がやってきたこととも、ちょうどマッチしていたんでしょうね。試してすぐに、球速が5キロくらい上がったんです。あんなに短期間で、スピードが上がったのは初めて。不思議ですよね。

たった3日で、最速144キロだった球速が150キロ近くまで伸びたという。センバツから夏までの約4カ月は、斎藤にとって濃厚な時間だった。確かな自信を胸に夏を迎えた。

ただ、それでも高校野球史に残る激闘を演じるとまでは、想像できなかった。(敬称略=つづく)【本間翼】

(2017年9月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)