全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第23弾は、広瀬叔功氏(81)です。広瀬氏は甲子園出場歴がありません。通った大竹(広島)は野球強豪校でもありません。しかし、のちに南海(現ソフトバンク)で通算2157安打を放ち、歴代2位の596盗塁。名選手を育んだ規格外の高校時代を全7回でお送りします。


「もしかしたら…」。今年7月。広瀬の心も躍っていた。母校の大竹が、今夏の広島大会で、ベスト4に進出した。1962年(昭37)以来、実に55年ぶりの4強だった。準決勝で広島新庄に敗れたが、久々の快挙に同校OBも沸いた。

広瀬 そんなの無理だとか言いながら、心の中ではもしかしたら甲子園に出られるかもって思ってたよ。

大竹はこれまで甲子園出場歴はない。夏の大会は、今年を含めて3度ある県4強が最高だ。決して強豪校とは呼べない高校に現れたスーパースターが、南海ホークスでプロ野球歴代2位の596盗塁をマークし、2157安打を放って名球会入りも果たした名選手・広瀬だった。実は、大竹の夏の広島大会での初白星は、広瀬が2年生のときに挙げたものだ。

そのずばぬけた身体能力は、ノムさんこと野村克也をして「野球の天才は2人しか知らない。長嶋(茂雄)と広瀬や」と言わしめたほどだった。「現代スピード野球の開祖」と呼ばれた天才は、どのようにして育まれたのか-。

1936年(昭11)8月27日、広瀬は広島・佐伯郡大野町(現廿日市市)で、大工の父・千代治と母・マツ子の6番目の子どもとして生まれた。姉が4人、兄が1人、後に弟も生まれて7人きょうだいだった。

広瀬 あたりは山に囲まれていて、田んぼや畑も多く、とにかく田舎だったよ。小さいころ「ターザン」の映画がはやっていて、格好いいからみんなでマネをした。木から木へ飛び移ったりしてな。

その中でも広瀬の足は抜群に速かった。駆けっこでは、年上の子どもにも負けなかった。プロ野球では5年連続盗塁王を獲得。しかも必要なときにしか走らないこだわりを持ち、64年には31連続盗塁成功。通算の盗塁成功率も82・9%を誇る。その韋駄天(いだてん)ぶりは、この幼い時代に、ひそかに育まれていたのだ。

広瀬 なんにもないから、山や海で遊ぶしかあらへん。でも、そのおかげで自然と足腰が強くなったんとちゃうかなあ。

生家から100メートルほど南へ行くと、海が広がっていた。国道2号を挟んで、港に出る。夏になれば、泳ぐしかなかった。現代っ子にはちょっと信じられない話だが、広瀬は小学校高学年になると、大野の港から対岸の宮島まで、泳いで往復していたというのだ。現在の地図で確かめると、大野の港から「大野瀬戸」と呼ばれるその海路は、狭いところでも、400~500メートルはある。子どもの体力で泳げたのだろうか?

広瀬 引き潮のときは(両岸が)浅くなるから、ずっと距離は短くなる。そのときに行くんだよ。先輩たちに連れられてみんなで行った。宮島に渡って遊んでると、潮が満ち始める。そうなると大変やから、急いで帰るんや(笑い)。

野山を駆け回り、海で遠泳した広瀬の体は、知らぬ間に鍛えられ、身体能力も磨かれていった。まさに「自然児」だった広瀬は、43年に地元の大野小学校(現大野西小)に進学する。そして小学校3年生になった夏休み。生涯忘れられない、広瀬の記憶の奥底に深く刻み込まれることになる出来事が起こる。(敬称略=つづく)【高垣誠】

◆広瀬叔功(ひろせ・よしのり)1936年(昭11)8月27日生まれ、広島県出身。大竹から54年、テスト生で投手として南海(現ソフトバンク)に入団。入団後遊撃手に転向し、後に外野手として活躍。61~65年に5年連続で盗塁王。64年は首位打者を獲得。77年に現役を引退し、78~80年に南海監督を務めた。現役時代の通算成績は2190試合、2157安打、596盗塁(歴代2位)、打率2割8分2厘。現在は日刊スポーツ評論家。

(2017年11月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)