1945年(昭20)8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された。このとき、広瀬は広島市内から約20キロ西にある大野町(現廿日市市)にある大野小(現大野西小)にいた。なぜ、夏休みだったのに登校していたのかは覚えていない。

広瀬 校庭でみんなと遊んでいたんや。朝礼する場所へ、移動するところやった。突然、ピカッと光った。周りを光が取り囲み、帯状になって、波打っていた。そんなのは見たことがないし、なんだこれ、どうなったんや? と。そしたら、何秒か後にドカーンと来た。見たこともない光にみんな驚いていたところで来た。我々は訓練を受けていたので、とっさに顔を隠して地面に伏せた。でも、小さな女の子たちは怖くて泣きだした。

光とごう音がやむと、広瀬ら子どもたちは「今のは何だったのか?」などと話しながら、朝礼場所に移動を始めた。校長先生は、ちょうど正面の方角である、広島方面に向いて立っていた。整列した子どもたちの前であいさつを始めようとして、東の方角を見つめたまま、固まった。

広瀬 校長先生はぽかーんと口を開けて放心状態だった。なんだ、なにを見てるんやと思って振り向いたら、キノコ雲が湧き上がっていた。どんどん大きくなっていって、ビックリしたし怖かった。そこからほとんど覚えていないんやが、気がついたら教室におった。逃げ帰ったんだろう。

廊下をバタバタと走る先生たちの姿があり、しばらくすると、家に帰るように指示が出た。帰る途中に、トラックが次々来た。近くに陸軍の病院があったが、そこに次々と被爆者が運ばれてきたのだ。

広瀬 顔とかがただれていて、それはひどいものだった。

家に帰ると、両親が殺気だっていた。2階に上がると、大きな窓のガラスが爆風で割れていた。その後、小学校は、病院に収容しきれない人たちの収容所となった。

両親は、軍に入隊したばかりの広瀬の兄・定美の安否を確かめるため、危険を冒して広島市内へ向かったという。あちこちをたずね歩き、広島駅そばに収容されていると知った。行ってみると被爆した人が並べて寝かされていたが、みな顔の判別がつかないほどの状態。「広瀬定美はいますか!」。必死に名前を呼ぶと、弱々しく手を挙げる人がいた。「定美か?」と声をかけると、うなずいたという。そのまま、兄は帰らぬ人となった。死に目に会えたことだけが、せめてもの救いだったろうか。後に両親から聞いたこの話をするとき、広瀬は兄の無念を思い、今でも涙ぐむ。

広瀬 もう、それからは怖いものがなくなった。こらえることも覚えた。プロ野球に入ったときも、苦しいとか感じなかった。

小学校3年生で目にした地獄は、広瀬の価値観を変えた。野球と出会ったのは、その翌年のことだった。(敬称略=つづく)【高垣誠】

(2017年11月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)