燃える男、星野仙一氏が亡くなった。中日時代に選手として星野監督のもとでプレーした西本聖氏に故人との思い出などを聞いた。

 -突然の訃報だった

 西本氏 びっくりしました。昨年11月の殿堂入りのパーティー。私はうかがえなかったんですが、お元気そうでしたし、驚いています。殿堂入りが決まった時に「おめでとうございます」とお電話させていただいたのが最後になってしまいました。

 -1989年、トレードで巨人から中日に移籍。星野監督のもとで3年間プレーした

 西本氏 前年(88年)は4勝しかできなかった。それでもトレード(巨人から西本、加茂川、中日は中尾)で獲っていただいた。移籍が決まってある関係者から「星野監督はなぜ西本を獲ったか分かるか」と聞かれました。自分としては2桁勝利を期待されていると思っていたんですが、それだけではなかった。「野球に対する姿勢、取り組み方を若い選手に見せて欲しい」と星野さんは考えていたそうなんです。それを聞いてすごくうれしかったですね。自分はドラフト外でプロに入ってそこからはいあがってきた人間。そういう姿を見ていてくれたんだなと。だったら「西本を獲って良かったな」と言われたい。そういう気持ちになりました。

 -星野さんはどんな監督だったのか

 西本氏 すべてを自分に任せてくれました。オーストラリアのゴールドコーストでキャンプしたんですが、朝6時前に起きて投手陣でゴルフ場を走った。マラソンで1位で帰ってきたこともあった。若い選手に姿勢を見せなければいけない。星野さんの期待に応えたいと思いました。3年間、1度も怒られなかったですね。

 -移籍1年目に20勝を挙げ最多勝

 西本氏 移籍初登板(89年4月12日のヤクルト戦=神宮)が忘れられません。2-2で延長戦に入ったのですが星野監督がベンチ前の円陣で野手に檄を飛ばしたんです。「オマエら何やってんだ! ニシに勝たせてやれ!」。巨人時代の14年間で円陣でそんな声を聞いたことは1度もなかったので思わず鳥肌が立ちましたね。結局その試合は延長12回、2-3でサヨナラ負け。私は168球を投げて完投、負け投手になりました。星野監督は「ニシに勝たせてやりたかった。男にしてやりたかった」と新聞にコメントしてくださった。そこから20勝できたんです。

 -印象に残っている出来事は

 西本氏 ある試合でまだ出始めだった山本昌が4回まで好投していた。ところが勝ち投手の権利が発生する5回に崩れてしまった。明らかにピッチングが守りに入っていたんです。5回途中で交代させられました。ベンチ裏で星野監督にかなり怒られていたので山本昌に「大丈夫か?」と声をかけると「僕が悪いんです」と素直に反省していた。巨人だとこういう投球をすると即2軍落ちとなるんですが星野さんは次の登板チャンスを与えた。今、この時にしっかりと教えないといけないと思ったのでしょう。厳しさの裏には想像以上の期待や優しさもあったと思います。選手を育てないといけないという思いも強かったはずですね。ある試合では代打で使った選手が三振してベンチに帰ってきた。「オマエなんか二度と使わん」と星野監督は怒鳴ったんですが、次の試合でもまた使った。するとまた三振。今度は「使ったオレが悪かった。二度と使わん」と怒鳴った。それでもまた次の日も使った。さすがに今度はヒットを打った。普通なら2軍落ちですよ。すごい監督だなと思いました。

 -2003年には阪神星野監督のもとでコーチを務めた

 西本氏 私にとって初めてのコーチでした。選手時代と同じようにすべて任せてくれました。その年は18年ぶりの優勝という素晴らしい経験をさせていただきました。自分は2年契約でしたが星野さんが監督を辞められた。どうする? と聞かれたので「監督にお任せします」と答えたら「じゃあ、一緒に辞めるか」ということで1年で辞めました。1年間でしたが指導者としての勉強もさせていただき、同時に素晴らしい思い出をつくることができました。

 -現役時代の星野投手について

 西本氏 「打てるものなら打ってみろ!」というすごい気迫だった。自分も打者に向かっていくタイプだったので「プロだな」と思いました。プロ野球選手というのは言葉じゃないんです。その姿、プレーを見せることでファンに感動を与えないといけない。そういう意味において星野投手はプロ中のプロだったと思っています。