オールスターゲームが史上初の中止と、プロ野球ファンにはなんとも寂しい知らせが飛び込んできた。球宴への出場は、選手にとって最高の栄誉のひとつでもある。新型コロナウイルスの流行が収まり、来年こそ無事に開催してほしいと願うばかりだ。夢の球宴とうたわれ、近年では参加する選手も笑顔が絶えない。ところが過去には、今では絶対に起こりえない、そしてまず間違いなく永遠に破られることのない記録も樹立されていた。

1952年(昭27)7月3日のオールスター第1戦。舞台は西宮球場で、阪急(現オリックス)の本拠地だ。後に球界をけん引する長嶋茂雄、野村克也の両雄はまだ、高校2年生という時代である。

大阪、神戸両市の警察音楽隊の先導で、両軍選手が入場。前夜からの雨が心配されたが、なんとか午後2時6分に試合は始まった。4回表、セントラルが千葉茂(巨人)からの4連打などで2点を先制。追うパシフィックは6回裏、蔭山和夫(南海)の2ランで追いついた。

試合はここから、信じられない展開をたどる。どちらも投手が好投を続け、試合は球宴史上初の延長戦へと突入した。両チームとも散発的に走者を出すものの決定打を欠く。守備陣も美技を連発。4時間30分の熱戦は、日没で2-2の引き分けに終わった。実に延長「21回」を戦った。

当時のメイン原稿を書いた日刊スポーツの石谷逸夫記者は、この名勝負を「まず非の打ちどころのない“ドリーム・ゲーム”と称さねばならない」とたたえている。50年に2リーグ分立となり、わずか3シーズン目。盟主巨人を擁するセ・リーグに対し、阪急、南海、近鉄、西鉄といった私鉄主体のパ・リーグ。相当なライバル意識があったようで、緊迫した白兵戦となった。

全パの山本(後に鶴岡)一人監督は試合後「全く精魂が尽き果てた。全選手こぞって懸命にプレーしてくれたので、悔いるところはない」と振り返った。また全セの川上哲治選手は後年「負けたくない、という一心から、死力を尽くしたことは今でも頭の片隅にしっかりと残っている。延長に入ってからはその意識が強すぎ、金縛り状態になった」と述懐している。

誰もが全身全霊を傾けてこその「ドリーム・ゲーム」が展開されたのだ。お祭りムードが悪いとはいわないが、やはり死力を尽くして技を競うのがプロ。球場を埋めた3万人のファンは、素晴らしい真剣勝負を堪能したに違いない。

ところで、この日の日刊スポーツ1面に、球宴と同居する記事がある。「ヘルシンキ五輪 日本選手団がオリンピック村に一番乗り」。歴史的熱戦のあったこの年は、オリンピックイヤーでもあったのだ。史上初の延期の決まった東京五輪。こちらも来年こそ、必ず行ってほしい。【記録室 高野勲】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)