春日部共栄(埼玉1位)が桐蔭学園(神奈川2位)に敗れ、村田賢一投手(2年)の“エースで4番”としての初めてのシーズンが終わった。連投の疲れから、前日までの村田の姿はなかった。

初回に先頭から6連打を浴びるなど1回8安打5失点。関東大会初戦から3試合25回370球を投じた右腕は、2回から一塁守備に回った。「握力がなかったと言えば言い訳になってしまう。自分の力不足です」と下を向いた。

度重なるケガと不運により、公式戦での登板は昨秋の1試合のみだった。それでも、新チーム発足前からチームの中心になることは決まっていた。「6月から心の準備をさせるため『お前がエースで4番だ』と言い続けた」と本多利治監督(61)。その言葉に応えるように、秋季埼玉県大会では全試合完投。関東大会でも準決勝の山梨学院(山梨2位)戦まで1人で投げ抜いた。4番としても来秋ドラフト候補の横浜・及川雅貴投手(2年)から本塁打を放つなど、15打数4安打5打点。決勝戦で4打数無安打で打率を落としたが、打撃でもチームのピンチを救ってきた。

父・長巳(おさみ)さん(48)も息子の開花の時を待った。小学生の頃所属した浦安ニューラッキーズでは、当時の監督から「将来性を期待されていた」と1度も犠打のサインは出たことはない。マウンドに立てば、1試合で20四球与えてた時も続投した。“エースで4番”になるべく育てられた。小学6年時にはジャイアンツジュニアに選出された。村田は投手として勝負したかったが、評価されたのは打撃。野手登録だった。

中学では江戸川南シニアで松坂大輔(現中日)らを指導した大枝茂明氏が指揮を執る、東京城南ボーイズに入部。入学時身長165センチ体重68キロで「ぶーちゃん」と呼ばれ、またも野手登録。本格的に投手を始めたのは中学2年時だった。父は「守るところがなくてサードやってみよう。キャッチャーやってみよう。次は外野やってみよう。ファーストやってみようと全てのポジションのグローブを買って、最終的にピッチャーに落ち着きました」と振り返り「いろいろ大変だったけど、やっと借りが返ってきました」とうれしそうに息子を見つめた。

村田は“エースで4番”として「有名になりたい」と臨んだ初めてのシーズンを終え、課題も見つかった。「まだまだ打てないし、投げられない。変化球も何もかも相手が2枚も3枚も上でした。自分は下半身が安定していないし、まず体が負けている。今回で(自分が)何を投げるか分かったと思うから、キレを良くしてストレートだと分かっていても当てられないような球を投げたい。150キロが目標」と力強く言った。全国に名をとどろかせるため、一冬で大きくなり、来春センバツで旋風を起こしてみせる。【久永壮真】

 

◆村田賢一(むらた・けんいち)2001年(平15)8月31日生まれ、静岡県三島市出身。小学2年の時、浦安ニューラッキーズで野球を始め、小学6年でジャイアンツジュニアに選出。中学では東京城南ボーイズで野球を続けた。最速146キロ。持ち球は直球、カーブ、スライダー、スプリット。身長182センチ72キロ。家族は両親と2人の弟。