エース佐々木朗希投手(3年)に代わって先発マウンドを任されたサイド右腕・柴田貴広投手(3年)は「甘くなかった…」と肩を落とした。

持ち味である横の揺さぶりで攻めるも、際どいコースを花巻東に見極められ、6回6安打も4四死球4失策が重なり9失点。「朗希たちの夢を壊してしまって申し訳ない」と号泣したが、試合後に佐々木に謝ると「気にすんな」と励まされたという。

東日本大震災で父功太さんを亡くした佐々木同様、柴田も9歳で父を亡くしている。サンマ漁に出る「海の男」だった父憲広さんが、肝臓がんに倒れたのは2010年のこと。野球を教えてくれたのも父だった。「死ぬ間際に『野球頑張れよ』と言ってくれたことは忘れません」。

闘病の末、11年2月に他界。翌月の3月に東日本大震災があり、父が去ったばかりの自宅が津波に流されるという苦難が続いた。それでも母祐子さんは懸命に働き、息子が野球を続けることを応援した。「野球だけは頑張らせろ。あとはどうだっていい。野球だけは…」。憲広さんの遺言に添うように。

仕事も忙しい。中学までは息子の試合をあまり見に行けなかった母。それが、変わった。「お金を稼ぐより大事なものがあるんじゃないかな、って。こうやって息子の野球を応援することが夫への供養にもなる」。3月末、5日間の関東遠征にも、祐子さんは車で訪れていた。

「文句を何一つ言わずに支えてくれた。ふがいないピッチングをしても、いつも褒めてくれた。遠くまでも仕事をわざわざ休んで見に来てくれたし」。母が息子を見るように、息子も母の頑張りに励まされてきた。

日本中から注目された試合に、先発マウンドを託された。スタメンを知った瞬間、祐子さんは「今すぐ逃げ出したい…」と緊張に押しつぶされそうになっていた。でも息子がマウンドに上がると、目をそらさず、しっかり見つめた。1つアウトを取ったら、誰よりも早く立ち上がって拍手を送った。涙を流しながら。

甲子園の願いはかなわなかった。でも父のように立派になった背中は頼もしかった。「すばらしい仲間や監督に巡り会えたことは、子どもにとっては何よりの宝物になると思います。2年半で野球の技術以外にも得たものがあるはず。これからも頑張って、いいお父さんになってほしいし、早く孫の顔を見たいな」。つらい結果になってしまったが、息子は成長したと信じている。