悲願の優勝旗「白河の関越え」達成を記念し、日刊スポーツの東北支社、支局に駐在した歴代の高校野球担当記者がさまざまな思いを語る「白河の関越え 思いを馳せる」第6回は04~07年、東北総局在籍の塩谷正人記者です。

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仙台育英が優勝旗の「白河の関越え」を達成した翌日、日刊スポーツはその様子を10ページで大展開した。すべての記事、写真に歴史をつくった瞬間の熱が伝わってきた。その中でも私は特別に、ある1枚の写真にグッときた。選手らが喜びを爆発させている1面の写真ではない。須江航監督(39)の胴上げでもない。須江監督と抱き合って涙する斎藤蓉投手(3年)の姿でもない。

4ページ目に掲載された元ヤクルト、現在BCリーグ埼玉武蔵ヒートベアーズの仙台育英OB由規投手(32)の写真だ。当時のチームメートとアルプス席で応援。ヤクルト時代の活躍も故障との闘いも、彼の情報はくまなくチェックしてきた。それでも、この快挙を伝える紙面の中で、あの笑顔を見ると感慨もひとしおだった。なぜなら、私の東北総局在籍時の「夏」は彼とともにあったといっても過言ではないからだ。

私は同総局に04~07年まで在籍した。最初に彼を取材したのは06年夏、宮城県大会決勝の仙台育英-東北戦だった。壮絶な投手戦となり延長15回0-0でドロー。翌日の再試合を制し、甲子園出場を決めた。当時2年の彼は2試合374球を投げ切った。この熱投と、大トリで全国切符を手にしたこともあり、その名は一躍全国区となった。

プロ注目選手となってからというもの「由規詣で」は続く。甲子園では06年夏、07年春、07年夏と全5試合を取材した。全日本高校選抜チームメンバーとして帯同した米国遠征にも同行した。球速アップの過程も目撃してきた。07年センバツ直前の練習試合で自己最速の150キロ。大会NO・1右腕として出場した同年夏の2回戦、智弁学園(奈良)戦で甲子園表示史上最速(当時)の155キロ。全日本選抜チームの米国遠征では157キロ。すべて現場で目にしてきた。

佐々木順一朗監督(現福島・学法石川監督)は地元仙台市出身の由規投手を「マウンドでは変貌するが、普段は典型的な田舎者の東北人でやさしい性格」と評す。そんな彼だから「東北勢として初の優勝を目指したい」といった勇ましい言葉を聞いたことがない。ただ、米国遠征で157キロを計測した後、はにかみながら「世界最速を出してみたいなあ」とつぶやいたことがあった。

思えば15年前のすでにこのとき、東北には世界を意識することができる彼のような選手を育成し、輩出する野球の裾野の広がりがあったということだろう。同年の高校生ドラフトでは大阪桐蔭の中田翔外野手、成田(千葉)の唐川侑己投手と並び「ビッグ3」に名を連ねた。

そして私は彼がドラフトでヤクルトに指名された翌月、07年11月1日付で東京本社に異動になった。現在は販売部に在籍し「書く」仕事から「売る」仕事に変わった。東北勢初優勝を成し遂げた仙台育英の記事を読むと、由規投手を追いかけた、あの熱(暑)かった「夏」を思い出させてくれる。それは1人の球児が成長する過程の記憶でもあった。ちなみに8月23日付の日刊スポーツ、おかげさまで売れ行きは好調でした!【04~07年東北総局、塩谷正人】