84年春に岩倉(東京)で全国優勝を成し遂げた山口重幸氏(57)が同校野球部のコーチに就任することが17日、内定した。4月1日付で就任する。

昨年限りでスタッフを務めていたヤクルトを退団した。この日、東京・台東区内の同校で契約を済ませ、その足で西東京市のグラウンドを訪れた。「久しぶりです。あの当時は3月に優勝して、4月には新1年生が100人近く、野球部に入ってきました。グラウンド整備も一瞬で終わっちゃって」と懐かしむ。

普通科とともに運輸科が設置され、鉄道関係の教育が伝統的に行われてきた。山口氏の周りにも「改札のハサミをちゃかちゃか練習している同級生たちがいましたよ」という日常。そんな高校時代を自分たちの力で、非日常にした。84年春に桑田、清原の「KKコンビ」を破って全国優勝を果たした。

「ランクが違うのも感じましたし、とにかくいい試合を楽しんでやろうというだけでした。1人1人ずつ投げて、気がついたらリードして9回。あと1回、あと1人。血の気が引いた思い出がありますね」

優勝旗を勝ち取って、東海道新幹線で東京駅に戻ると、もっと強烈な思い出が待っていた。そこには空前の盛り上がりがあった。

「朝10時くらいかな、着いたのは。東京駅の時点でも私たちを待ってくれた人人であふれてて。そこから学校がある上野駅までバスで向かうんです。でも動かないんですよ。決勝の相手がPLだったし、きっと注目度も違ったんでしょう。歩道橋が落ちちゃうんじゃないかってくらい、人が待ってくれていました。5万人とか6万人とか。予定されていたパレードも中止になっちゃって」

バスはのんびりと進み、ようやく母校に着く。

「でも今度はたくさんの人が押し寄せて、学校から出られなくなって。もうパニックで。おなかすいても外に買い物にも行けないので、ヘリコプターからパラシュートでカップラーメンとかパンとか校庭に落としてもらって、食べた思い出があります。裏口の、さらに裏口から解散したのはもう夕方だったかな」

最寄りの上野駅ではなく、隣の鶯谷駅から家路へ向かった優勝メンバーたち。山口氏も地元の大田区へこっそりと帰った。でも穴守稲荷駅で降りたら再び-。

「商店街がなんかお祭りみたいな感じだったんですよ。見られると恥ずかしいから遠回りして家に帰ろうと。そしたら気付かれて。しかもお祭りじゃなくて、どうも地元の人たちが私の帰りを待って並んでくれていたって聞いて」

新学期も放課後は連日、上野の校舎から西東京のグラウンドまで「たぶん毎日100人以上いたんじゃないか」という数の女性ファンたちが、山口氏ら岩倉ナインに付いてきたという。

空前のフィーバーから40年が過ぎ、プロ野球界での日々を終え、再び母校のグラウンドを踏む。「もう、僕らの代だけですよ。岩倉、って言ってくれるのは」と少し寂しそうだ。

だから盛り上げたい。現役の高校生たちと、互いどこか照れくさそうに初対面する。ずいぶんと年の離れた後輩たちを見渡し、思いを伝えた。

「山口といいます。君たちの、一応ね、OBになります。昨年までプロ野球で38年間、仕事をしてきました。今の自分があるのは岩倉高校、特に野球部に入ってからの今までの人生だと思っています。何か恩返しをしたいとずっと思っていました。甲子園優勝はみんなの力で勝ち取りました。そういう気持ち、あの感動を君たちにも味わってもらいたい。何か恩返しをしたいという時に、監督はじめいろいろな方から誘ってもらいました。3年生は夏までになってしまうけれど、目標は高く、甲子園出場じゃなくて優勝くらいの勢いでいってもらいたいと思います。僕も自分がやって来たスキルも教えられる範囲で全部教えたい。惜しみなく君たちを応援したいと思います。監督の指導があるので僕はサポート役としてやっていきますので、4月から正式に就任しますけど、あいさつに来ました。よろしくお願いします」

あらためて出発進行-。そんな決意の思いを伝えると、40歳も年下の後輩たちがさわやかに「よろしくお願いします!」と声をそろえた。【金子真仁】