スポーツ・イラストレイテッド誌の記者から取材を受けたのは、つい先日のことだった。伊良部秀輝氏がメジャーデビューを果たしてからこの7月10日でちょうど20年。米国で最も有名なスポーツ雑誌が、それを記念して特集記事を組むのだという。

 1997年の伊良部氏のメジャー入りは、ロッテがパドレスに同氏の保有権を譲渡することで合意したが、ヤンキース移籍を強く希望した本人の意思をくみ、最終的には三角トレードという形でヤンキース入団が決まるという異例の移籍劇だった。その後、日米間で移籍システムを構築する必要性が語られ、1998年にポスティング・システムが誕生。それから外国人も含め15人の選手が同システムを利用して日本プロ野球からメジャーに移籍し、次は日本ハム大谷のポスティング移籍が大きな注目となっている。

 こうして振り返ると、伊良部氏のメジャー移籍は、後の日米球界に大きな影響を与えたといっていい。そんな伊良部氏のデビュー20周年という節目の今、スポイラ誌が特集するというのだから、米国でもその存在の大きさは長い年月を経ても忘れられていないのだ。

 ヤンキースの取材現場には、当時を知る記者はもう数人しかいない。彼らに伊良部氏の記憶を尋ねると、日本メディアとの間に起きたトラブルのエピソードを思い返す人が多いが、かといって悪いイメージを持っているわけではない。ヤンキースには3年間所属し29勝20敗、2年目の98年5月と翌99年7月に月間最優秀投手賞を受賞。移籍前から「日本のノーラン・ライアン」と呼ばれ、期待が大きすぎただけに評価されなかった面もあっただろうが、まずまずの活躍をした投手として記憶されている。

 当時から現在に至るまで唯一ヤンキース番記者を続けるニューヨーク・ポスト紙のジョージ・キング記者は「ワルだったというイメージは持っていないけど、所属していた3年間、ベストな体形だったことが一度もなかったという記憶だね。ロジャー・クレメンスやアンディ・ペティットのような鍛え抜かれた肉体を持っていれば、また違うキャリアをたどったのではないかな」と話し「皆からブーブと呼ばれていたね」と振り返った。チームメートから親しみを込めたニックネームで呼ばれていたことを今も記憶に留めている記者がいるというのは、うれしい発見だった。

 ヤンキースタジアムで、伊良部氏の2年目から通訳を務めたジョージ・ローズ氏とも久々に再会した。この十数年、彼とはまったく会っていなかったわけではないが、20年という節目の再会は、また格別な思いがある。ローズ氏は今もヤンキースの球団で、現在はビジネス部門の担当として手腕を振るっている。

【水次祥子】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「書かなかった取材ノート」)