元祖二刀流の「野球の神様」も、草葉の陰で後継者が気になるのでしょうか。7月1日に悪天候で中止となったエンゼルス大谷翔平投手(27)とヤンキースの代替試合が16日(日本時間17日)、ニューヨークのヤンキースタジアムで行われます。当日はくしくも、ベーブ・ルースが亡くなってから73年の命日にあたります。

1914年にレッドソックスに投手として入団したルースは持ち前の打力を生かすため、投打の二刀流として活躍。1920年のヤンキース移籍と同時に野手に専念し、ホームラン打者として不動の地位を築きました。1934年11月には大リーグ選抜の一員として初来日し、16試合で13本のアーチを量産。興行として大成功を収め、翌年初の日本プロ野球チーム(後の巨人)誕生へと導く大恩人となるわけですが、帰国後のルースを待っていたのは、非情な解雇通告でした。

しかもヤンキースは、絶大な人気を誇ったルースを監督にする考えはありませんでした。ルースは結局、「監督手形」という不確実な口約束を信じ、ブレーブスへ移籍。1シーズンだけプレーし、通算714本塁打の大記録を残し、40歳で引退しました。それからずっと、監督の誘いを待ち続けましたが、電話が鳴ることはありませんでした。

引退から13年後の1948年6月13日、初代ヤンキースタジアムで開場25周年を祝う記念式典が催され、OBらスター選手たちが一堂に会しました。中でも、5万人の大観衆が最大の喝采を送ったのはルースでした。しかし、豪快なホームランでスタンドを熱狂させたヒーローは闘病中で、絶え間ない痛みに耐えながら歩くのがやっと。新聞記者に「ルースが建てた家」と呼ばれた球場で、主が背番号「3」を付けた最後の日になりました。

栄光の背番号は永久欠番となり、ユニホームは殿堂に飾られました。式典後、ルースは「私の義務はすべて終わった。これでゆっくり休める」と妻に語りました。そのまま療養生活に入り、あの大柄だった体が見るのもつらいほど痩せ細っていきました。同年8月16日、後にコミッショナーに就任するナ・リーグのフォード・フリック会長が見舞った翌日、喉頭がんで53年の生涯を閉じました。遺体はヤンキースタジアムに安置されました。その日、ニューヨークは猛暑日でしたが、10万人ものファンが訪れ、死を悼む人の列が途切れることはありませんでした。

ルースの命日が今年、ニューヨークでのエンゼルス戦と重なったのは、偶然とは思えません。二刀流道を突き進む後輩を一目見たいと、ルースが粋な舞台を用意してくれたような気がします。私も2年ぶりのメジャー探訪中にて、当日はニューヨーク近郊で墓参し、故人をしのびたいと思います。夜はヤンキースタジアムで大谷の豪快なホームランを期待しながら、ルースが好きだった冷たいビールで乾杯します。(大リーグ研究家)(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「福島良一の大リーグIt's showtime!」)

ヤンキースタジアム(2016年撮影)
ヤンキースタジアム(2016年撮影)