ドジャース大谷翔平投手が、29歳で迎えたメジャー7年目の序盤、松井秀喜が10年間で残したホームラン数に並んだ。MVP2回の大谷が、規格外の選手であることは言うまでもない。ただ、数字の単純比較が、どれだけの意味を持つのか-。歴代の大打者の足跡を追い、未踏の道を切り開いた大谷が、自らを異次元のレベルまで引き上げた経緯と時代背景をたどる。

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大谷のド軍との契約は、今季を含めてあと10年。大きな故障さえなければ、将来的に500号、600号を超えたとしても、だれも驚きはしないだろう。だが、20年前、日本人選手がメジャーで本塁打王のタイトルを獲得することをイメージすることは不可能に近かった。

松井がメジャー入りした03年当時、米球界はパワー信奉主義の「副作用」ともいえるステロイド禍がまん延していた。その後、薬物対策が進み、科学的なウエートトレーニングの導入が本格化した。パワー、筋力増だけでなく、サプリメントなどによる栄養補給、体力維持など、多分野で選手を取り巻く環境がめざましい進歩を遂げた。

近年は、動作解析を含め、数値やデータの細分化が進んだ。投手の速球の平均球速は、07年の約91・9マイル(約146・4キロ)から、23年は94・2マイル(約151・2キロ)と約4・8キロアップ。打者は「バレル理論」と呼ばれる長打の出やすい打球速度と角度を求め、投打とも各選手のスタイルが変わった。

巨人最終年となった02年、自己最多の50本塁打を放った松井は、ヤンキース入りした03年、本拠地デビュー戦で満塁弾を放ったものの、年間では16本塁打に終わった。通算440本のジェイソン・ジアンビ、509本のゲーリー・シェフィールド、696本のアレックス・ロドリゲスら大砲が居並ぶ打線で、松井は本塁打を求められる立場ではなかった。デビュー前のオープン戦では進塁打を意識し、首脳陣から「ヒットエンドランのサインを出してもいいか」と問われ、即座に快諾した。

日本のファンから本塁打を期待されていることは、松井も理解していた。だが、アッパー気味のスイングで本塁打を狙うことはしない。04年に31本塁打を放ったものの、常勝ヤ軍にチームの勝利以外、優先する数字は存在しなかった。

日頃から体のケアは欠かさずとも、最新のウエートトレではなく、松井の練習の基本は、常に素振りだった。「昭和」のにおいを残す、ハイテクとは無縁の時代。野球が国民的娯楽であっても、選手を「アスリート」と表現することもなかった。もし、最新のトレーニングを積んだ松井が現在のメジャーにいれば…、20年前に大谷が常勝軍団のヤ軍でプレーしていれば…との仮定は、おそらく無意味に違いない。ただ、松井だけでなく、落合博満、清原和博ら球史に残る天性の長距離砲らが、今の時代にメジャーでプレーしていれば、また違う歴史が刻まれていた可能性も捨てきれない。

「国民的英雄」の長嶋茂雄、王貞治からイチロー、松井らへとつながれてきたスーパースターの系譜を、大谷は日本から世界へと広げた。記録が破られるのは世の常とはいえ、大谷は常識も覆してきた。だが、たとえ個人の数字が傑出したとしても、チームが低迷すれば重みは薄れる。ド軍移籍時の大谷は、決断の理由として「勝つことが一番」と言い切った。裏を返せば、大谷は数字を追い求めているわけではない。

日本人選手のイメージを変え、豪快な1発で勝利に貢献する存在。「175」に並び、異次元へ突き抜けた大谷は、日本人の枠を超えた「時代の申し子」なのかもしれない。【MLB担当 四竈衛】

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