咲本淳一(71)は強打の一塁手として倉敷商の3番を打ち、4番星野とクリーンアップを組んだ。半世紀以上前、セピア色の写真では、2人はいつも隣に写っている。同じ東京6大学の法大に進み、上京後も深い関係が続いた。

 中学時代は県大会で入賞する水泳の好選手だった。周囲の勧めもあって倉商から野球部。当時としては体がうんと大きく、カラリとした性格も相まってウマがあった。「もちろん野球でも、こまごま具体的な思い出って、あるんですけど。やっぱりホシという人間。彼との出会い、思い出がまず、頭に浮かぶんです」。1番を打った藤川當太(71)とともに、いつも行動を共にしていた。

 2年生のときだ。「彼が二、三塁間で挟まれましてね。二塁手に向かって跳び蹴りをしたんです。相手が怒る…ホシも負けじと言い返す。試合後はたくさんの警官隊に囲まれて帰りました」。とにかく負けず嫌いで「勝負の鬼というか、本人とは別の何者かが、ホシの中に棲(す)んでいるのではないかと。ホント、思うんです」。向こう気も強く、上下関係を強要する先輩にも立ち向かった。「当時は先輩と言えば絶対ですけど。控えの先輩の理不尽なんかには『それは、どういうことですか』とハッキリ言ってましたね」。一本気が忘れられない。

 咲本にはもう1つ、忘れられない星野の姿がある。学生服のズボンに、いつもピシッと入っていた縦1本の折り目-。「お母さんがやっていたんですよね。決して裕福ではなかったはずだけど、きれいな折り目が入っていて、当時からオシャレだった。彼のお姉さんも、みんな大学に行っている。裏切れませんよね」。

 阪神の監督になった星野に呼ばれ、咲本は甲子園球場に行った。「打席に立ってもいいかい」「もちろんだ」。あと1歩届かなかった場所からグラウンドを見た。何げなく「やっぱり甲子園はすごいなぁ」と言った。

 甲子園に屋根をつける議論が起きたとき、ラジオ番組に出演した星野は強い口調で言った。「絶対にダメだ。オレの親友が打席に立って、涙を流して感動していた。甲子園のあの風景を変えてはいけない。夢なんだ」。咲本は言った。「立場や肩書で人を判断しない。いつまでも付き合いを変えない。そんな男なんです」。(敬称略=つづく)

【宮下敬至】