オリックスからFA移籍した阪神西勇輝投手(28)が新天地でいよいよ開幕を迎える。出身校の三重・菰野(こもの)高校野球部監督で恩師の戸田直光氏(56)が28日、教え子と二人三脚で取り組んだプロ養成秘話を明かした。また本紙に激励の手紙を寄せた。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

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「ピッチャー西」の完成は、独自の育成法によるものだった。

戸田 わたしは球数制限というのを好みません。投げるときは、投げる。でもブルペンでの球数は徹底的に管理する。連投はさせない。投げさせて、肩、肘が回復したと判断すれば、また投げさせる。その繰り返しで球速アップをはかっています。

菰野町出身の西は、地元の「菰野ボーイズ」に所属し、八風(はっぷう)中から進学してきた。

戸田 エースになったのは2年の春からです。中学時代からフォームがきれいで、制球力があった。成長期を経て高校で身長は約180センチ、体重65キロぐらいまできた。ただ走るのは苦手だったと思います。

そこで「持久力&瞬発力」を鍛えるのに、コーチの佐藤良から走り込みの必要性をたたきこんだ。

戸田 わたしは長距離走を強いることはまずない。基本的にダッシュ、短距離のインターバルを重視するからです。例えば土日の練習試合で、西が登板しないとき、1試合2時間として、試合が続く限り、ずっと30メートルのダッシュをさせてきた。ダブルヘッダーのときは、4時間走りっ放しという計算です。ほんと? うそはつきません。

高1のときの球速133キロは、2年春にはMAX140キロ超までこぎつける。

戸田 高3の6月下旬に中京高(現中京学院大中京)との練習試合で登板した際には、チェンジの合間にファウルグラウンドでダッシュをさせた。毎イニングです。西の限界を知る必要があった。7、8回になると打たれ出して球速も130キロ台に減速した。それで目安がわかる。それに世間一般でいうメンタルトレーニングを活用しません。練習のなかで我慢を覚えさせながら集中力を養います。

プロ10シーズンで5回規定投球回をクリアしているのは、故障しにくい体作りに関係している。

戸田 疲労をとって、メニューを工夫しながら投げさせるので故障させることはない。オリックス2年目に右肩の違和感を覚えたようですね。そのとき「これが肩の違和感というものなんですね」ともらしたように、あれが野球人生で初体験の故障でした。わたしは一切故障はさせなかった。無事之名馬です。

ケガに強いボディーは筋肉の付き方にも特長があるという。

戸田 西の肩甲骨周りは非常に柔らかい。だから疲れが蓄積しにくく、連投が利く。肩甲骨の部分に指が「ズボッ!」っと入る。それくらい筋肉が柔らかいです。

西の精神力は“戸田イズム”によって強靱(きょうじん)になった。

戸田 あの表情からは分からないでしょうが、内に秘めた闘志、負けん気は強い。1度死球を当てられ、当て返したことがある。叱り飛ばしましたがね。

プロ入り後は、マウンドで笑顔をみせながら投げているように映る。

戸田 ええ。西がニコニコしながら投げているときは調子がいい証拠で、それがバロメーターです。笑顔が消えると黄信号。わたしはベンチから「スマイル! スマイル!」と声を掛けてきた。復活します。新天地で2桁以上勝つことを信じています。(敬称略)

◆戸田直光(とだ・なおみつ)1962年(昭37)8月20日、名古屋市生まれ、56歳。大府高から大体大を経て、弥富高(現愛知黎明)でコーチを経験。87年に菰野高の野球部監督に就く。甲子園出場は夏2回(05、08)、春1回(13年)。18年広島からドラフト5位で指名された田中法彦投手が7人目のプロ輩出選手になった。

○…戸田監督は西への思いを便箋2枚の手紙につづった。竹永小で「竹永野球少年団」、八風中で「菰野ボーイズ」に所属した頃から注目。「素直なやさしい子供でした。まさかプロの世界に進むような投手に育つとは思っていなかった」。

菰野高監督に就いて32年目。長年指導にあたる同監督は、7人のプロ野球選手を輩出した。昨オフ、西をはじめ6選手が駆けつけ、地元の少年少女150人を対象に野球教室を開催。それぞれが手弁当だった。

「厳しい指導でたくましくなった。野球人口の減少もあるし、子供たちがあこがれるような投手になってほしい。1日でも息の長いピッチャーでいてくれることを望みます」。手塩にかけた教え子に激励の気持ちを込めた。