ネット連動企画「リクエスト制度」の第3回は、松井清員デスクが中西清起氏(日刊スポーツ評論家=57)を直撃。匿名さんから寄せられた「虎風荘の伝説は?」に答えます。

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守護神として阪神の85年日本一に貢献した中西清起には、今だから笑って話せる伝説があるという。新人だった1984年(昭59)4月、ナゴヤ球場で2軍戦を終えて帰阪し、甲子園口の居酒屋で夕食を取った。その後、当時甲子園球場前にあった虎風荘に、門限の午後10時に間に合うように帰って、寮長の点呼を受けた。だがもう一度飲みに出るため、11時ごろに2階の窓から脱出を試みた。

中西 隣のマンションの塀に足がかかったと思ったけど、酔っぱらっていたので実際はかかっていなかった。そのまま食堂の裏にズドン。次の日がゴミ出しの日で、大量に積んでいた空のビール瓶の山に頭かお尻からか分からないけどドスンと落ちたんです。

額にガラスが突き刺さり、大量に流血した中西を見た寮長は仰天。「119番って何番や!?」と叫んだ逸話も残る。球団はドラフト1位入団で1軍デビュー前の中西の将来も考え、「腰痛と風邪による入院」と発表。23針縫う重傷を負った中西は、球団から30万円の罰金を科された。

中西 あと少し額の打ちどころが悪かったら、命を落とすところでした。でもみんなに迷惑をかけたので、結果を出して取り返すんだという大きな力になったのは間違いないですね。

大けがから2カ月半後の6月巨人戦でプロ初勝利。翌85年は山本和行とのダブルストッパーとして大活躍した。63試合に登板し、11勝3敗19セーブで最優秀救援投手賞を獲得。球団初の日本一に貢献した。【松井清員】(敬称略)

<虎風荘アラカルト>

初代虎風荘=甲子園球場前、94年まで

◆掛布深夜の素振り 73年ドラフト6位で高卒入団した無名の掛布雅之は、他の選手が寝静まってから屋上で素振りしていた。

◆新亀フィーバー 選手は甲子園球場に歩いて通っていたが、92年の新庄剛志&亀山努フィーバーではファンが殺到。合宿所から出ることが出来なくなり、裏口から車で出たことも。

2代目虎風荘=西宮市鳴尾浜、94年~

◆兵庫・西宮市の埋め立て地鳴尾浜に移転。鳴尾浜球場に隣接し鉄筋4階建てで、1カ月の寮費は約3万7000円。独身は高卒5年、大学社会人は2年まで在籍が義務づけられた。門限は午後10時30分で翌日試合がない場合は11時。阪神・淡路大震災後に神戸市の自宅から甲子園に通えなくなった真弓明信が単身入居したこともある。

◆井川ラジコンヘリ 井川慶のリフレッシュ法はラジコンヘリの操縦。休日は隣接する球場や自室のベランダなどからヘリコプターを飛ばしていた。

◆出世部屋 316号室が出世部屋とされる。近年では井川、能見篤史、岩田稔、上本博紀、藤浪晋太郎が利用。初代虎風荘では406号室で掛布、岡田彰布らが使った。

▼日刊スポーツではネットと連動した企画を2つ実施中。「リクエスト制度」では担当記者に取材してきてほしい話をホームページで募集しています。また「みんなの総選挙」では現在、新時代・令和で最も多く本塁打を打つであろう選手の投票受け付け中。