「一蓮托生内閣」に吉田の執念を見た。34年前の85年、阪神は球団史上唯一の日本一を成し遂げたが、その予兆は監督就任直後からのコーチ招へいにあった。2度目の阪神監督就任。満を持しての組閣にあたった吉田監督と比較した時、昨年オフ金本監督解任によるドタバタ劇の末に監督就任、そして2軍スタッフがほぼそのまま1軍コーチに就任した矢野内閣は、あまりに気の毒に映った。育てながら勝つ-。今オフのコーチ陣テコ入れは必至の状況だが、85年のトラ番で元大阪・和泉市長の井坂善行氏(64)は、こう見る--。

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歴史は繰り返すと言うが、確かに阪神という球団は経営、編成に携わる人が代わっても、その結末は同じようなことを繰り返す体質がある。

昨年の金本監督解任も衝撃的だったが、実は84年オフも似たようなものだった。1度は留任の記者会見まで開いたはずなのに、フロントの不穏な動きに嫌気が差した安藤監督が突然の辞任。そしてオーナー、球団社長までが入れ替わって誕生したのが2度目の監督就任となる吉田体制だった。

しかし、昨年と34年前を比較した時、当時はそれほど気にしなかったが、34年前が昨年と大きく違ったのは、慌ただしい監督就任だったはずなのに、1軍のコーチ招聘(しょうへい)が実にスムーズで、ずいぶんと以前から時間をかけて交渉していたかのような組閣だったことである。

84年10月23日、阪神監督に復帰した吉田義男氏はヘッドコーチに元大洋の土井淳氏を呼び、投手コーチには350勝投手の米田哲也氏。打撃コーチは阪神OBの並木輝男氏を据え、守備走塁コーチは「懐刀」の一枝修平氏が就任した。そして、吉田監督が「私が辞める時はコーチ全員が辞める時」と公言した「一蓮托生(いちれんたくしょう)内閣」が誕生したのである。

もちろん最後の最後まで「一蓮托生」とはいかなかったが、その布陣は現役時代の実績も含め、いかにも重厚なスタッフがそろった。

そう振り返ってみると、昨年の矢野監督誕生からの組閣は、あまりにも急場しのぎの感を拭えない。辛うじて、ヘッドコーチに清水氏を招聘したが、あとは「2軍で一緒に戦ってきた」という理由で、ほぼ2軍スタッフが1軍に昇格し、1軍コーチが契約上の問題なのか、そのまま2軍スタッフに就任した。そこに、「育てながら勝つ」というフロント-現場の確固たる意志が反映されているとは思えない組閣に終わってしまっている。

まだCS出場の可能性は残されているが、今オフのコーチ陣のテコ入れは必至だろう。「育てながら」と言うなら、コーチの人選は監督と同じように重要な経営戦略である。果たして、歴史を塗り替えることが出来るのかどうか。

<今昔秘話>

政治の中枢である東京・永田町では、11日にも行われる内閣改造で騒がしいことだろう。そんな中、内閣のスポークスマンでもある官房長官には、菅氏の留任が早々と報じられている。安倍首相の「安定と挑戦」のうち、安定の目玉とも言えるのが、官房長官の留任だろう。

スポークスマンの重要性は、プロ野球の内閣でも同じだ。85年、吉田監督就任から、その目指すべき野球を正確に報道してもらいたい、との思いから、トラ番と接してきたのが一枝修平氏だった。私自身も親しく付き合っていただき、紙面に書く、書かないではなく、野球の本質を教えていただいた。そして、一枝コーチは主力選手の心理を、トラ番を通じて掌握することも忘れなかった。私などはミスタータイガース・掛布の精神状態について、よく一枝コーチと話し合ったものである。

矢野阪神の中では、矢野監督が自ら招へいした清水ヘッドコーチがその立場だろうか。彼の能力については、報道されている範ちゅうしか分からないが、ある意味、監督以上に大切なポジションであることは間違いない。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍を経て、プロ野球デスク。「近鉄監督に仰木彬氏就任」などスクープ多数。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選。1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。