プロ野球唯一の通算400勝投手で元ロッテ監督の金田正一(かねだ・まさいち)氏が6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため、都内の病院で亡くなった。86歳だった。通夜、告別式は近親者のみで行われる。

喪主は長男賢一(けんいち)さん。後日「お別れの会」を行う予定。愛知県出身の金田氏は、享栄商高を中退して50年に国鉄(現ヤクルト)に入団。65年に巨人に移籍し、前人未到の400勝を達成し69年引退。引退後はロッテ監督を務め、74年に日本シリーズを制した。

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日本プロ野球史上最高の投手「カネやん」が永眠した。長男の賢一氏によると、8月8日に体調不良を訴えて入院。以後はうまく食事ができなかった。病室では高校野球やプロ野球をテレビで観戦。18年に野球殿堂入りのスピーチを行った巨人原監督が大のお気に入りで、CSも楽しみにしていた。集中治療室(ICU)では看護師から「金田さんお名前は?」と聞かれると「長嶋です」と冗談で答えていた。だが、ここ数日は会話ができない状態だったという。

現役時代は184センチの長身から投げ下ろす直球と大きなカーブを武器に、20年間で日本で唯一となる通算400勝(298敗)をマークした。高校中退して17歳で入団した国鉄では、2年目から14年連続20勝以上を挙げるなどエースとして君臨。ノーサインで投球するなど強烈なキャラクターで、史上最多の巨人戦65勝を挙げた。

58年には立大から巨人に入団した黄金ルーキー長嶋茂雄のデビュー戦で4打席連続三振の洗礼を浴びせ、プロの意地を見せた。自ら食材を買って栄養豊富な鍋をつくるなど、体に多額の自己投資することでも知られた。

65年には巨人に移籍。5年間で47勝を挙げ、通算400勝を達成した69年に引退した。背番号34は永久欠番となった。

引退後は73年にロッテの監督に就任した。2年目の74年にはリーグ優勝し、日本シリーズも制覇。78年まで指揮を執った。同年には200勝、2000安打を条件とした名球会を設立。88年には野球殿堂入りした。90年にはロッテの監督に再び就任。「カネやんダンス」などのパフォーマンスで盛り上げたが、5、6位に終わった。以後は評論家やタレントとしても活躍した。

通算奪三振4490、通算投球回5526回2/3、365完投、298敗など、現在も多くのプロ野球記録を誇る。打撃にもすぐれ、投手として36本、代打で2本と通算38本塁打を記録している。

18年2月にはジャイアンツ-ホークスのOB戦(宮崎)に顔を見せ、長嶋氏、王貞治氏らと旧交を温めていた。若くして家計を支えて弟3人をプロ入りさせているが、18年10月、最多勝2度の金田留広氏も死去している。

◆金田正一(かねだ・まさいち)1933年(昭8)8月1日、愛知県中島郡平和村(現稲沢市)生まれ。49年、名古屋電気学校から享栄商へ転校。甲子園出場経験はない。50年、高校を中退して国鉄入団。巨人戦史上最多の65勝を挙げ、51年からは14年連続20勝をマーク。経営権がサンケイへ移った65年、当時のB級10年選手制度の権利を行使し巨人に移籍。現役通算20年間で400勝298敗、奪三振4490、投球回数5526回2/3、完投365などの記録を残した。通算防御率2・34。ベストナイン、沢村賞各3度。球宴出場17度。69年限りで現役引退。巨人の背番号34は永久欠番となる。74年、ロッテの監督として日本シリーズを制覇した。78年に200勝、2000安打などが条件の名球会を設立。88年、野球殿堂入りした。現役時代は184センチ、73キロ、左投げ左打ち。