南海のエースは、衝撃の身売りを経て、福岡の地で再スタートを切った。1989年4月15日、平和台に西武を迎えての本拠地開幕戦でダイエーは2-1で勝った。1失点完投でホークスのホーム初勝利を挙げたのは、山内孝徳氏(63=野球解説者)。「九州の盟主は、俺たちダイエーホークスだ」の思いを込めた鬼気迫る姿でエースはマウンドに仁王立ちし、九州にホークスの第1歩を記した。

【取材・構成=堀まどか】

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満員御礼のスタンドの半分を、ライオンズブルーが埋めていた。1989年4月15日、ダイエーホークス初の平和台開幕戦。九州の野球ファンはまだ、埼玉・所沢に去ったライオンズに思いを残していた。先発の山内は奮い立った。

山内 俺たちだぞ、もう。九州は俺たちの本拠地なんだと知らしめたかった。

東京ドームで迎えた4月8日のシーズン初戦。開幕投手を託された山内は、日本ハム打線を4安打に抑えたが、味方の拙守から失点し、4-4の9回裏に中島輝士にサヨナラ2ランを浴びた。2日後の3回戦で加藤伸一が力投しホークスは新球団初勝利を挙げたが、エースは無念の思いをかみ締めて福岡に戻った。

山内 責任を果たせなかったショックがあった。エラーがなかったら…と周りから言われても、最後に打たれたのは俺だったから。

監督の杉浦忠が「平和台開幕はお前で行く」と告げたとき、山内は「俺でいいんですか」と聞き返した。

山内 「お前しかおらんやろう」と杉浦さんは言ってくれた。故障を抱えていても、お前は中4日を崩したことがない。責任感が一番あるのがエース。だったら、お前しかおらんと。

かつての大エース杉浦からそこまで言われ、再び闘争心に火がついた。本拠地開幕戦。福岡市の自宅で、神棚に手を合わせて向かったマウンド。当代最強の西武打線に立ち向かった。

山内 戦う以上、相手に負けたくないという気持ちだけで俺は戦ってきた。今までの戦いは、その積み重ね。でも平和台のその1勝は、そうじゃないのよ。負けられない責任感、俺を指名してくれた杉浦さんへの恩返し、そして九州にホークスありというのを知らしめたい。その気持ちで投げたんです。

3回に河埜敬幸、5回にウィリー・アップショーの適時打で計2点の援護をもらった。だが6回に石毛宏典にソロを浴び、1点差で迎えた終盤、山内は鬼神となった。主軸を迎えた8回、攻めに攻めた。3番・秋山幸二を遊ゴロ、4番・清原和博を三振。1球投げるたび、こぶしを突き上げ、天にほえた。

山内 営業の人らがどれだけ駆けずり回ったかを知っていたから。中内オーナーの意志が社員に伝わり「俺たちが作り上げるんだ」という意気込みで九州を回った。子どもにダイエーの帽子を配って回った。それに応えないといかん、ライオンズのブルーを俺たちの色に変えないといかん。努力を無にするわけにはいかなかった。

9回2死三塁、平野謙を直球で二飛。128球、5安打1失点だった。3者凡退はわずか2回。再三のピンチをしのぎきった完投勝利を、V9巨人を率いた名将、川上哲治は日刊スポーツ紙上でこう評した。

「『打てるなら打ってみろ』の気迫がみなぎっていた。(中略)常にがけっぷちで完投した精神力は、どこから生まれたのか。何もかも生まれ変わろうとする『新生』の芽生えを、そこに見てとった」

中学で野球に出会った。鉄げたをはいて下半身を、工事現場で拾った鉄のナットをはめた手製のマスコットバットでスイング力を鍛え抜いた。鎮西、電電九州でエースを張り、南海でも1年目から即戦力になった。野球人生で培ったすべてをかけ、チームに九州初勝利をもたらした。それがエース山内孝徳の実質、最後の投球になった。

山内 もしあの時投げていなければ、ダイエーでの4年間に俺はもっと勝っている。あの開幕戦の後の試合でも気合を入れてんだけど、あの試合の気合と何か違う。引退したあとにそれをずっと考えてたら、ロッテの渡辺俊介がWBCですごくいい投球をした。でもそのあとに結果を残せなかったことに対して、心理学者が「燃え尽き症候群」って言葉を出した。俺もそれだ! って。あれで俺、燃え尽きてた。投手・山内孝徳をつぎ込んでしまった。

「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈はホセ・メンドーサとの死闘で灰になった。エースの責任を果たし、山内も燃え尽きたのだ。92年6月28日日本ハム戦で通算100勝を達成。最後の勝利も平和台だった。同年、山内は現役を引退した。それでも悔いはない。

山内 あれ以上の試合は俺にはないんだ。日本シリーズで投げることはなかったけれど、投げていたとしてもあれ以上の試合は俺にはなかったろう。俺にとってプロに入った証しであり、プロに入った意味があったということ。自分の運命に従って全力で努力した。息を引き取るときはわからんけど、今悔いがないということは多分、悔いのない人生を送りよるんやと思う。

博多移転後、ホークスがシーズンで積み上げた勝利は2203。山内の「白い灰」の上に、王者ホークスの道は始まった。

○…山内と杉浦の信頼関係は、杉浦が現場からダイエーフロントに転身した後も変わらなかった。92年の秋、福岡市内の喫茶店で山内に来季の構想外を伝えたのは杉浦。「申し訳ない。俺に力がないばかりに」と杉浦は悔し涙を流した。山内も泣いた。南海でもダイエーでも、杉浦は山内に寄り添い続けた。

エースとしてチームの屋台骨を支えてきたこと以外にも、2人の共通項はある。ともにゴルフが堪能。杉浦は球界屈指のゴルフの達人で、山内も今はアマチュアゴルフの大会に継続して出場。つい最近も、11月29日に閉幕した第44回全九州クラブチャンピオンズ大会シニアの部で2年ぶり3度目の優勝を飾った。「大会に出るのは、緊張感を味わえる場所だから」と山内は言う。握るものは白球からクラブに変わっても、ひりつくような緊張感を求める思いは健在だ。

◆山内孝徳(やまうち・たかのり)1956年(昭31)8月5日、熊本県生まれ。鎮西から電電九州を経て79年ドラフト3位で南海入り。野村克也元監督の背番号19を引き継ぐ。82年から7年連続2桁勝利。引退後は野球解説などで活躍。実働12年の通算成績は100勝125敗5セーブ、防御率4・43。球宴に3度出場。現役時代は175センチ、79キロ。右投げ右打ち。