阪神ナインの原点、足跡をたどる企画「猛虎のルーツ」の第4回は、今季リリーフとして台頭した守屋功輝投手(26)です。全国の舞台とは無縁だった倉敷工高時代。そこから社会人ホンダ鈴鹿に進み、プロ野球の世界に飛び込んだ裏には、1人の猛虎戦士との出会いがあった。【取材・構成=磯綾乃】

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今季リリーフ陣の一員として頭角を現した守屋には、恩人がいた。その人はタテジマの大先輩でもあった。「片岡さんがいなかったら、ホンダ鈴鹿にも行けていないし、プロ野球選手にもなっていなかったと思います」と感謝の言葉を並べた。母校・倉敷工高のOBで、阪神では田淵幸一氏の控え捕手だった片岡新之介氏(72)だ。

出会いは偶然だった。守屋が高校1年生の時の練習試合。広島のMSH医療専門学校で硬式野球部監督を務めていた片岡氏が、後輩でもある当時の倉敷工監督、中山隆幸氏を訪ねた。「そこで初めて知ったんよ。まだそんなにガンガン投げてる子じゃなかったけど、期待しとったんじゃろうな」。中山監督が「この子が伸びてくれたらいいなという思いがあるんです」と紹介したのが守屋だった。

細身ながら同年代の中でも、ずぬけて高い身長。柔らかい腕をしならせ、投げっぷりの良さも魅力的だった。片岡氏は光るものを感じ取る。知り合いの野球関係者に会えば「ええ子がおるんじゃ」と雑談の中で守屋の話をしていたという。

高校3年間で守屋は甲子園と無縁だった。最後の夏は3回戦でコールド負け。数球団のプロスカウトが視察する選手に成長していたが、高卒でプロ入りする力はなかった。大学進学も勧められたが、「親に迷惑をかけたくない」と社会人野球に進むことを希望した。

その当時、ホンダ鈴鹿で監督を務めていたのが吉本亮氏。片岡氏が広島でコーチを務めていた時の現役選手だった。「面白いピッチャーがおるで」と片岡氏が話すと、投手補強が課題だったホンダ鈴鹿の方針と合致した。守屋はすぐに入団テストを受けた。多彩な6球種を投げ、最速145キロを計測。ホンダ鈴鹿、そしてプロへの道が開けた。

3年後の14年、ドラフト4位で守屋は阪神に指名された。片岡氏は縁ある後輩の活躍を心から喜んでいる。「倉敷工の先輩で、長くプロにもおったし、『頑張りなさい』と言ったのが、励みになったんかも分からんなあ。そういうことで頑張ってくれたなら、それはありがたいよね」。縁が結んだプロの舞台だった。

○…倉敷工元監督の中山隆幸氏(59)も守屋の活躍を陰から見守る。中学時代は全国はおろか県大会出場経験もなく、無名の選手だったという。倉敷工では山登りなど下半身中心のトレーニングを重ね、入学時に120キロ後半だった球速は、145キロまで上がった。中山氏は「プレーは大胆に、態度は謙虚に」という言葉を守屋に掛け続けた。「インコースに投げていたり、自信があったのかなと思います」と今季の飛躍を喜んでいた。

◆片岡新之介(かたおか・しんのすけ)1947年(昭22)11月5日生まれ、広島県出身。倉敷工高-芝浦工大-クラレ岡山を経て69年ドラフト5位で西鉄(現西武)入団。阪神には76年に移籍し、田淵や若菜らの控え捕手として存在感を示す。81年阪急へ移り、86年引退。現役通算716試合、344安打、36本塁打、139打点、打率2割3分9厘。現役時は176センチ、82キロ。右投げ右打ち。引退後は広島でコーチを務めた。