日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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日刊スポーツ西日本は20日、創刊70周年を迎えました。1950年(昭25)1月20日の創刊号は、セ・リーグ展望座談会がトップで、ユニホーム姿の阪神藤村富美男と女優入江たか子のツーショット写真が1面に掲載されています。

前年の49年11月26日にプロ野球はセ・パに分立。巨人、阪神が中心のセ・リーグに対し、パ・リーグは毎日がけん引。新球団が加盟し、毎日が若林、別当ら阪神の主力を引き抜くなど、両リーグの対立に拍車がかかりました。

その年、ニッカンの前身、神戸にあった神港夕刊新聞社は、後に会長に就くセ・リーグ顧問の鈴木竜二、関西事務所長小島善平、そして読売新聞運動部長の宇野庄治3人の訪問を受けます。その席で関西でのスポーツ紙発行の打診を受けたのです。

社長の竹内重一は年末に決断を下し、読者からの公募で『オールスポーツ』として産声を上げます。日本初のスポーツ紙は46年に創刊した東京の日刊スポーツですが、オールスポーツは紆余(うよ)曲折をへて、その後『大阪日刊スポーツ』に改題されていきました。

当時、ミスタータイガースといわれた藤村富美男が「われわれも技術の向上に努力するが、ライターも勉強してほしい。そして権威ある新聞社として、批判と啓蒙を望みたい」と本紙に寄せたメッセージを読み返すと身が引き締まる思いです。

セ・リーグからの強い要請を受けた経緯からセ・リーグ系のスポーツ紙だったが、時代の変遷とともに総合スポーツ紙に育っていった。長い歴史をひもといてみると、プロ野球界はオリンピック(五輪)を境に大きな転機を迎えていることが分かります。

64年東京五輪後は、野球では大リーグ来日で国際化に向かった。24年ぶりのアジア開催となったソウル五輪の88年には、南海がダイエー、阪急がオリックスに球団売却。戦後派企業が球界進出した元年の89年は「昭和」が「平成」に改元されました。

さらに本紙が55周年を迎えたアテネ五輪の04年には、複数オーナーが「1リーグ制導入」に動いて未曽有の球界再編で激しく揺れ動いた。その結末は近鉄が消滅し、ソフトバンク、楽天の新興企業の参入で新しい風が吹いたのです。

そして今年1月、ソフトバンク会長の王貞治が地元テレビ局のインタビューで「野球界のためにはできるものなら16(チームになるように)、あと4つ球団が誕生してほしい」と注目発言しました。日本列島が熱狂の渦に包まれる五輪イヤーの節目に、球界は波乱含み。新たなシーズンに向けて気を引き締めたいところです。