各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」は、西武の高卒3年目右腕・平良海馬投手(20)の軌跡をたどった。昨季、最速158キロで中継ぎとして頭角を現し、リーグ2連覇に貢献。投げっぷりに加え「男梅」の愛称や寮の部屋に入ってきたクワガタを飼うなど、愛されキャラクターも話題になった。今季は、19日楽天戦で日本人6人目の160キロをマーク。新人王候補にも挙がる右腕のプロ入りまでの運命をひもといた。

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海馬という名前のごとく、海とともに導かれるようにプロの世界まで駆け上がっていった。沖縄・石垣島で生まれ育った平良は、自然と野球にのめり込んでいった。エメラルドグリーンに輝く海からわずか100メートルという真喜良小学校のグラウンドで、野球人生を歩み始めた。

平良 小学校のグラウンドで野球をやっているのを見て、自分もやってみたいと思ったことがきっかけ。チームは練習時間も決まっていなくて、みんな集まって、コーチがきたらノックが始まるような感じでした。厳しさはなく、野球を楽しんでいました。遊んでいたような感じで野球をやっていましたね。

グラウンドでは野球に打ち込み、時間があれば釣りざおを持って、海へ釣りに出かけた。海という大自然に囲まれながらのびのび育った。小学校では捕手をメインに、内野も外野も守ったが、中学で転機が訪れる。硬式の八重山ポニーズに入団すると、当時の監督から「ピッチャーをやってみろ」と言われ、初めてマウンドに上がる。2年の時には投手兼外野手で、沖縄県代表として全国大会に出場した。

平良 キャッチャーを長い間やっていたから、セカンドに速く投げられるようにするために強く投げていた。小学校の頃からノーバンで投げようと。より低く、より速く。そういう意識でやっていたので、ピッチャーは嫌ではなかったし、楽しかった。チャレンジしてみたいって思えたので、すんなり転向できました。フォームも投げたいように、教えられることもなく、ただ投げていましたね。ただ強いボール投げよう、速いボールを投げようって感じでした。

中学時代の最速は133キロだった。変化球はカーブとスライダー。小学校とは打って変わって、厳しい練習が続いた。高校進学も野球で決めた。伊志嶺吉盛監督(当時)が率い、沖縄の離島では初めて甲子園出場した地元・八重山商工だった。

平良 野球のためでした。強かったので。2年生までは外野がメインで、自分たちの代になってから投手になりました。145キロくらいまでは、思いっきり投げていたら球速が出たけど、ただそこからはなかなか伸びなかった。

秋季大会は地区予選1回戦敗退。春までのオフ期間、家でふとあるテレビ番組に目がとまる。当時西武に所属していた菊池雄星投手(現マリナーズ)の密着番組だった。オフのウエートトレーニングに取り組む菊池の姿を見て、平良も冬の期間はトレーニングジムに通った。成果は春に発揮。春季大会は部員不足で宮古工との連合チームで、島が違うため合同練習は本番直前の1回だけだった。1回戦の中部商戦、そこで152キロをマークする。自然と平良の頭には「プロ」の2文字が浮かび上がった。

平良 え? 150出るの!? って自分でもビックリしました。もしかしてプロいけるのかなって、そこで初めて思いました。

大台を超えた平良は、プロのスカウトにも徐々に知られる存在になっていった。新1年生を加えた新チームで臨んだ夏の大会は初戦首里戦でまたしても敗退。しかしその試合、北谷球場に西武渡辺久信SD(現GM)が視察にきていた。公式戦はすべて初戦敗退。それでも、その剛速球だけでなく、フィールディングのうまさを評価した西武から、ドラフト4位指名を受けた。

プロ2年目の昨季、頭角を現し、最速158キロをマーク。今季も中継ぎの一角として重要な役割を担っている。テレビ番組を見ていなかったら、150キロを出していなかったら、視察にきていなかったら…。運命をたぐるように引き寄せ、プロの世界へ飛び込んだ。昨オフは、菊池の米アリゾナでの自主トレに同行した。今なお、右肩上がりの成長曲線を描く平良。少年時代の自分に声を掛けるとしたら。「そのままでいい。やりたいことをやっていればいいって言ってあげたい。やってきたことは間違っていなかったから」。これまでも、これからも、信じた道を突き進む。【栗田成芳】

◆平良海馬(たいら・かいま)1999年(平11)11月15日、沖縄県石垣市生まれ。八重山商工では1年春からベンチ入り。2年秋からエースも甲子園出場なし。17年ドラフト4位で西武入団。19年に1軍デビューし、同年8月30日ソフトバンク戦でプロ初勝利。今季推定年俸1200万円。173センチ、100キロ。右投げ左打ち。