日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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高校野球で「逆転のPL」とうたわれ、一時代を築いた。元PL学園、法大野球部監督の山本(旧姓鶴岡)泰が、甲子園で交流試合、各地区で独自大会が開催されていた8月11日、腹部大動脈りゅう破裂のため他界した。
プロ野球が開幕した6月19日に電話で話していた。コロナ禍が落ち着けば再会する約束をとったばかりで、突然の訃報に驚きを隠せなかった。最後に向き合った3月2日の取材メモをめくってみる。
当日の山本は、スカウトだったマリナーズのジャンパーを着て現れた。プロ野球史上最多1773勝を挙げた南海の名将鶴岡一人を父にもつ山本は、法政二、法大、社会人の日本楽器、日拓観光でプレーした。
その人生は、厳格な父から多大な影響を受けた。法大時代に阪神スカウトだった河西俊雄からドラフト指名を伝えられたが、「南海が指名するからあきらめてほしい」と“ツルの一言”で破談になった。
だが南海監督だった父からは「うちはお前とは契約しないから社会人に行け」と言われ、プロ入りは幻になる。山本は父に方向付けられた野球人生を、せきを切ったように話し続けた。
特に、1978年(昭53)西田真二、木戸克彦のバッテリーを擁した甲子園初優勝になると、話が止まらなかった。準決勝の中京戦に9回0-4から逆転サヨナラ勝ち。高知商との決勝戦も9回裏に0-2をひっくり返した。
「春に1番を打たせた中村は壮行会でほめたつもりが、本人に重圧がかかって打てなかった。夏は9番にしたがヒットが出ない。打席にいく前に本人を呼び寄せて、目をつぶって打てといったら先っぽに当たって中前に落ちた。勝てるんちゃうかなと思った。1番谷松が四球、渡辺に送らせた。3番木戸の犠飛で1点、西田がガツンと二塁打で追いついた。柳川が左中間でサヨナラ勝ちです」
監督としての冷静さを感じたのは「最終回に谷脇監督(高知商)が森(2年生投手)の肩をポンとたたいて送り出すんです」と聞いたときだ。劣勢でも相手ベンチの動きに目配せしたのはさすがだった。
山本は「流れって面白いもんで、勝てるときはストーリーがわいてくる」と盛り上がった。ただ頂点に立っても、父の鶴岡からは「あの優勝インタビューあかんな」と言われたという。
日帰り取材は長時間に及んで泊まりになった。本題については後日、執筆したい。甲子園で選手権大会が開催されなかった名残の夏。名監督が親子タカの生涯を閉じた。(敬称略)



